岩村城

  岐阜県:歴史・観光・見所恵那市岩村町:観光・観光・スポット>岩村城(読み方:いわむらじょう)

概要・歴史・観光・スポット

岩村城(別名:霧ヶ城)概要: 岩村城の築城は鎌倉時代初期の承久年間(1219〜1221年)、初代将軍源頼朝に従い鎌倉幕府御家人である加藤景廉が築いたのが始まりと伝えられています。2代景朝が遠山氏を名乗り、以後歴代遠山氏の居城となりました(遠山景朝が岩村城築いたという説もあります)。

加藤氏は藤原利仁の流れを汲む氏族で伊勢国の一部を支配していましたが、平家に敗れた事で伊豆国(現在の静岡県)に逃れ再び力を蓄えました。

治承4年(1180)、加藤景廉は源頼朝の平家打倒の挙兵に参画し、源平の合戦や奥州合戦でも功を挙げ遠江国浅羽庄地頭職と共に美濃国恵那郡遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)を与えられました。長男である景朝は地名に因み遠山姓を名乗り、岩村遠山氏の祖となり、岩村城は長く遠山家の居城として機能しました。

当初は富田・大円寺付近に築かれた居館程度の城だったそうですが、岩村の地は信濃と尾張を結ぶ交通の要衝として次第に重要性を増し戦国時代に本格的な城郭として整備されたと思われています。

岩村城の鎮守社で城内に鎮座していた八幡神社の棟札には永正5年(1508)に遠山頼景が造営したことが記されている為、少なくとも永正5年以前には現在の岩村城のように山上に築城されていたようです。戦国時代後期になると武田領、織田領、徳川領に近接し交戦が絶えなかった為に、遠山氏は岩村城を大規模に拡張整備し一大要塞となりました。

おつやの方が女城主だった岩村城の高石垣
おつやの方が女城主だった岩村城の高石垣

遠山景任の代には織田信長と姻戚関係を結び武田信玄に対抗します。元亀2年(1571)、景任が死去すると信長は景任の正室(おつやの方:信長の叔母)を城主と定め御坊丸(信長5男)を嗣子とする体制にしますが、元亀3年(1572)、武田家家臣秋山信友の猛攻により岩村城は落城寸前まで攻め込まれます。信友は和議の条件におつやの方との婚儀を条件にした為、結婚が成立後、岩村城は開城し信友が城主となりました。

天正3年(1575)、長篠の戦いの後武田家が衰退すると甲斐侵攻が開始、岩村城も標的となり織田信忠により落城し、信友・おつやの方夫妻は長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されたそうです。

その後、河尻秀隆、団忠正、森長可、森忠政、田丸直昌が短期間で城主が代わりますが随時、岩村城は改修、拡張が続けられ特に森氏の時代に城代として赴任した各務兵庫助元正が18年間精力的に整備し現在の岩村城に見られる近代的山城が完成しています。

江戸時代に入ると松平家乗岩村藩を立藩、岩村城の麓に藩主の居館を移し城下町など領内の整備が行われます。

2代乗寿は大坂の陣で功をあげ寛永15年(1638)に浜松藩(静岡県浜松市)に3万6千石で移封となり、代わって伊保藩(愛知県豊田市)から丹羽氏信が2万石で入封し、跡を継いだ丹羽氏定は弟である丹羽猪之助氏春に1千石を分知し1万9千石となっています。

元禄15年(1702)、丹羽氏がお家騒動で越後国に移封になると小諸城(長野県小諸市)から松平乗紀が新たに岩村城主になります。以後、松平家が7代乗命まで岩村城を守り明治維新を迎えています。明治4年(1871)の廃藩置県により廃藩、岩村城も廃城となっています。

復元されている岩村城の城門
復元されている岩村城の城門

【 岩村城の縄張り 】-岩村城は海抜717mの城山山頂に築かれた山城で近代城郭の中で最も高い位置に本丸を設け、規模や縄張りの巧みさから備中松山城、大和高取城とともに「日本三大山城」の1つに数えられています。

明治6年(1873)に廃城になると破却、払い下げとなり徳祥寺の山門として土岐門が、妙法寺山門として不明門が勝川家には土蔵がそれぞれ移築されています。

現在は麓の藩主居館の一部表御門・平重門・太鼓櫓などが復元され、岐阜県指定史跡に指定、平成18年には日本100名城に選定されています。又、城下町である岩村町本通りは現在でも当時の町並みが色濃く残されており国の重要伝統的建造物群保存地区にて選定されています。

岩村城:上空画像

【 城下町 】-当地は古くから岩村城の城下町でしたが、戦国時代に入ると古くからの城主だった遠山氏と武田氏、織田氏などが岩村城を廻り度々戦を繰り返した事で城下町も荒廃しました。

織田信長の家臣河尻秀隆が岩村城の城主になると今まで城の北側にあった城下町を現在地である西側に町割し、岩村川右岸には武家屋敷、左岸には東西に伸びる街道沿いに町人町を設けました。江戸時代に入り岩村藩が立藩した後も当時の原型は踏襲され人口が増える毎に拡張されました。

現在でも江戸時代に建てられた町家が数多く現存し良好な町並みを有しており岩村町本町2丁目および本町3丁目全域、本町1丁目、本町4丁目、本町5丁目、柳町、西町1丁目、西町2丁目、朝日町、新町1丁目、新町2丁目、の各一部、面積約14.6ヘクタールが平成10年(1998)に名称「岩村町岩村本通り伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成19年(2007)に財団法人古都保存財団による「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されています。

岩村城:周辺駐車場マップ

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-岩村町
・ 現地案内板-岩村町・岩村町観光協会


岩村城:ストリートビュー

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岩村城:太鼓櫓・石垣・写真

岩村城のそそり立つ石垣の上に復元された太鼓櫓
[ 付近地図: 岐阜県恵那市岩村町 ]・[ 恵那市:歴史・観光・見所 ]
岩村城の復元された太鼓櫓に隣接する長屋門 岩村城の石段と石垣、復元された土塀と御門 岩村城の復元された土塀と石垣と石段 岩村城の登城路に設けられた堂々とした一之門の石垣 岩村城の鬱蒼と茂る木々の間に貫く石畳と一之門 岩村城の苔むし歴史の重さが感じられる石垣
岩村城の二之門の切り込みハギ風に積まれた石垣 岩村城の畳橋が架かっていた何重にも織り成すような石垣 岩村城の苔むして重厚で曲線が美しい高石垣、 岩村城の両側に石垣が続く雰囲気がある登城路 岩村城の籠城戦では命を繋ぐ役割を果たしたと思われる竜神の井 岩村城の竜神の井がある直上の郭
岩村城の苔むした石垣が細く長く続く登城路 岩村城の霧ヶ城の由来となった霧ヶ井(岐阜県の名水50選) 岩村城の幾層にも重なる六段石垣と手前の菱櫓の石垣 岩村城の迫りくるような六段石垣 岩村城の防衛の要だった二重櫓の石垣 岩村城本丸に設置された標識板
岩村城の本丸を撮影した画像 岩村城本丸から見下ろした出丸を撮った写真 岩村城本丸に設けられた昇竜井戸 岩村城本丸に設置された埋門 岩村城埋門に積み上げられている打ち込みハギ風の石垣 岩村城防衛を考えられている石垣
岩村城本丸の高石垣 岩村城の郭を覆っている雑木林 岩村城埋門を構成している堅固な石垣 岩村城納戸櫓の苔むした打ち込みハギ風の高石垣 岩村城菱櫓のややいびつに積み上げられた石垣 岩村城の郭の一場面を撮った画像


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