太田宿脇本陣(林家住宅)概要: 林家は代々太田宿の脇本陣を勤めた家柄で、本陣の福田家と共に太田村の庄屋も担っていました。その他にも尾張藩勘定所の御用達を勤め、生業として醸造業や質屋などを営み、幕末や明治時代初期には槍ケ岳を開山した播隆上人(浄土宗の行者)や、板垣退助も利用しました。往時は敷地の間口奥行き共に25間(約45m)、主屋の他、隠居家(西)、土蔵10棟、馬屋3棟が配される大豪邸でした。
脇本陣は本陣に次ぐ格式を持ち、大名や公家など身分の高い人物が利用し、2組以上の大名家が太田宿を利用した場合に片方が本陣を利用する為、その代替施設となりました。庄屋は村の行政を取り仕切る役割を担った為、村でも実力者が任命され、林家の屋敷の間口も広く、太田宿の中央付近に位置し当時の繁栄が窺えます。
現在の林家住宅は江戸時代中期の明和6年(1765)に建てられたもので木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、桁行8間、梁間9間半、外壁は1階部分が板張りで2階は真壁造り白漆喰仕上げ、両脇には高く掲げられた卯建が設けられています。表門(附;袖壁)は天保2年(1831)に建てられたもので切妻、桟瓦葺。隠居家(西)の建築年は不詳ですが木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、主屋同様に外壁の両端は高い卯建が掲げられ、外壁は板張りで街道側の正面は真壁造り白漆喰仕上げになっています。
旧太田宿脇本陣(林家住宅)は中山道に残る唯一の脇本陣の遺構として大変貴重な存在で昭和46年(1971)に国指定重要文化財に指定されています(当初の指定は主屋・表門(附:袖壁)・質蔵・借物蔵、平成12年に隠居屋(附:便所・井戸・塀)・宅地などが追加指定)。
【 太田宿 】−太田宿は江戸時代には尾張藩(藩庁・愛知県名古屋市:名古屋城)に属し、難所である「太田の渡し」を控え、郡上街道が分岐する交通の要衝だった事から、藩の代官所や川並番所が設置されました。又、木曽川の川止めの宿でもあり、木曽川が大雨や長雨などで増水時には太田宿で宿泊する事を余儀なくされ旅籠や木賃宿は賑わいました。
江戸時代末期には公武合体運動により皇女和宮が降嫁の為江戸に下向する際には太田宿も利用され、水戸浪士による天狗党が徳川慶喜に謁見する為に京都を目指した際にも太田宿を宿所として利用しています。現在でも、脇本陣家の林家住宅や、本陣表門、吉田家住宅(小松屋)などの古建築が残され、古い町並みを形成しています。
太田宿脇本陣:上空画像
|