【 岩村城 】−岩村城(岐阜県恵那市岩村町)は鎌倉時代初期に初代将軍源頼朝に従った加藤景廉、又はその跡を継いだ遠山景朝が築いたとされます。加藤氏は藤原利仁の流れを汲む氏族で伊勢国の一部を支配していましたが、平家に敗れた事で伊豆国(現在の静岡県)に逃れ再び力を蓄えました。治承4年(1180)、加藤景廉は源頼朝の平家打倒の挙兵に参画し、源平の合戦や奥州合戦でも功を挙げ遠江国浅羽庄地頭職と共に美濃国恵那郡遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)を与えられました。長男である景朝は地名に因み遠山姓を名乗り、岩村遠山氏の祖となり、岩村城は長く遠山家の居城として機能しました。戦国時代になると、武田家、織田家、徳川家の領地に近接し、交戦が絶えなかった為に、遠山氏は岩村城を大規模に拡張整備し一大要塞となりました。武田信玄が美濃に侵攻すると、岩村城の城主遠山景任は織田信長に好を通じ、織田家と血縁関係を結ぶ事で対抗しましたが、元亀3年(1572)に遂に圧力に屈し武田家に転じて岩村城の開城に応じます。しかし、信玄が死没すると今度は武田家が衰退し織田家の圧力を受けるようになり、天正3年(1575)に織田信長の嫡男織田信忠との5か月間にわたる攻防戦の末、岩村城は落城します。その後は織田方の城として織田家家臣が城主を歴任しその間に岩村城は大城郭へと拡張整備されました。江戸時代に入ると岩村藩が立藩し、岩村城の麓には藩庁と藩主居館が新たに設けられ城下町も整備されました。岩村藩は松平(大給)家、丹羽家、再び松平(大給)家と藩主を歴任し、明治4年(1871)の廃藩置県により廃藩、岩村城も廃城となりました。
【 城下町 】−当地は古くから岩村城の城下町でしたが、戦国時代に入ると古くからの城主だった遠山氏と武田氏、織田氏などが岩村城を廻り度々戦を繰り返した事で城下町も荒廃しました。織田信長の家臣河尻秀隆が岩村城の城主になると今まで城の北側にあった城下町を現在地である西側に町割し、岩村川右岸には武家屋敷、左岸には東西に伸びる街道沿いに町人町を設けました。江戸時代に入り岩村藩が立藩した後も当時の原型は踏襲され人口が増える毎に拡張されました。現在でも江戸時代に建てられた町家が数多く現存し良好な町並みを有しており岩村町本町2丁目および本町3丁目全域、本町1丁目、本町4丁目、本町5丁目、柳町、西町1丁目、西町2丁目、朝日町、新町1丁目、新町2丁目、の各一部、面積約14.6ヘクタールが平成10年(1998)に名称「岩村町岩村本通り伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成19年(2007)に財団法人古都保存財団による「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されています。
|