小豆沢宿

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小豆沢宿:略データ
・場 所・岐阜県飛騨市宮川町小豆沢
・概 要・当地は、平安時代に富安郷に属していたと見られ、中世に富安郷から小鷹利郷が分かれると小鷹利郷に属しました。

小鷹利郷は飛騨国司である姉小路氏の一族である小鷹利郷氏が配されている事から当地もその支配下にあった可能性があります。

飛騨国と越中国の国境付近に位置していた事から、江戸時代に入り改めて越中西街道(飛騨街道)が開削されると小豆沢口留番所が設けられています。

小豆沢口留番所では当地を通過する人物改めや荷物改めが行われ、通過する荷物に対して口役銀という通関税を徴収し、高山の天領陣屋(代官所)に納めていました。

明治3年(1870)に筆された申上候書付(西文書)によると地役人1人・水夫1人が、2月・6月・10月交替で勤めていた事が記されています。

一方、国境が曖昧だった事から越中国婦負郡桐谷村の村人が国境を越え薪木を盗伐するという事件が発生し寛文12年(1672年)には小豆沢の住民が幕府に訴えると「飛越国界論裁許絵図」が作成され、その裏書には「東方小豆澤村八町下、両国境の石塚より、こかや原・平之尾を通り、北之谷、しろきが峯西方境谷、金剛ヶ岳の峯を通り、これを墨引きし評定の面々が加印し国境を定めた。」と記されています。

嘉永2年(1849)11月に記録された口役銀取立帳によると138件が記されており、平均すると1日当たり4人から5人程度の人が小豆沢を通過していた事が窺えます。

越中西街道沿いに隣接する越中国加賀沢村や蟹寺村には複数の円空仏が残されている事から小豆沢の地にも円空が訪れていたと思われます。

特に加賀沢村の鎮守である白山社、蟹寺村の鎮守である白山社には円空作の神像が納められている事から、当地の鎮守である白山神社にも何らかな彫像があったのかも知れません。

又、徳本上人が文化13年(1816)に信州飯田から高山東山大雄寺の正体を受けて飛騨国に入り、その後、越中国に抜けた際、蟹寺五郎兵衛屋敷で休憩されたと伝わる事から小豆沢を通過したと思われます。

越中国から飛騨国への米の移動は荒田、中山、小豆沢の3番所で改めを受けていましたが、明治2年(1869)4月の記録によると荒田口では22俵、中山口では79俵に対し、小豆沢口では8俵だった事から荷物輸送には難しい経路だった事が窺えます。

元禄検地帳によると高八石余、畑のみ3町1反余、焼畑1町3反余、名請人12人、屋敷持13人、口留番所敷1畝余。

飛騨国中案内によると免2割2分2厘余、家数16軒(内農家14軒・門屋2軒)、当地は農地が少なかった事から農民は隣の杉原村に出作りしていたそうです。

小豆沢と対岸の鮎飛を結ぶ「籠の渡し」があった事でも知られ、斐太後風土記には「藤を籠に幾十にうちとめて、藤の大綱を川の両岸に張り渡し、留株にからみつなぐ。その籠に人を乗せて、こっちの岸よりかなたの岸へ引き渡す。あたかも、くもの糸を伝うに似て、その危険なことはいうまでもない。」と記されています。

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