| ・野口集落からは縄文時代と古代時代の遺物が発見された散布地である事から古くから人々が生活していた可能性があります。
平安時代末期から近世までは飛騨国吉城郡小島郷に属していたと思われ、慶長18年(1813)の飛騨国郷帳の小島郷の条に「野口すへ実共」と記されています。
南北朝時代から戦国時代かけては飛騨国司の姉小路氏が支配し、当地には一族である小島家が配され小島城を本拠地としていました。
15世紀初頭に宗家の弟である姉小路頼時の子供、姉小路尹綱は古川城を本拠地とし、地名に因み「古川」姓を掲げ、応永16年(1409)に山科家領を巡り山科教信と対立しています。
応永18年(1411)に姉小路尹綱はその不満から挙兵、一方、室町幕府は飛騨国守護職京極高光や甲斐氏、朝倉氏、小笠原持長に命じて姉小路征伐を断行しています。
尹綱は小島城に立て籠もり激しく抵抗したものの敗走し、その後、協力者である武安郷の広瀬高堂城の城主広瀬常登と共に討死しています。
野口の地は越中国方面から古川盆地への侵入口に当たり、日本海側や神岡、白川を結ぶ街道の分岐点となる交通の要衝だった事から戦国時代には野口城が築かれています。
野口城の城主や歴史的経緯は不詳ですが、当地は姉小路氏の一族である小島家の領域だった事から、小島氏の有力一族や家臣等が配されたと推定されます。
小島氏は姉小路一族の惣領家のような立場でしたが、飛騨国守護職京極家の家臣筋と思われる三木氏の台頭により、姉小路氏の名跡が三木氏に遷っています。
天正10年(1582)に武田家が滅亡し、本能寺の変で織田信長が横死すると三木氏(姉小路氏)は佐々成政に与した為、羽柴秀吉と対立、越中国からの秀吉勢の侵攻に備え野口城は拡張整備されたと推定されています。
天正13年(1585)に秀吉に従った金森長近の飛騨国侵攻により三木氏(姉小路氏)は降伏、程なく野口城は廃城になったと思われます。
野口城の城址からは土師器や珠洲焼、瀬戸美濃焼、天目茶碗等が出土し、現在も曲輪跡、畝状竪堀群、堀切等が残され貴重な事から国指定史跡に指定されています。
野口城の麓に位置する野口集落には「宮ノ腰」、「宮ノ前」、「神ノ木」等の字名が残されている事から城下町時代には神社が鎮座していたと思われますが、廃城と共に廃されたと思われ、登城道沿いには薬師堂のみが見られます。
江戸時代に入ると越中西街道の宿場町として整備され、野口を過ぎると難所である宮川の大峡谷を控えている事から荷物はここで積替て難所に臨んでいます。
慶長18年(1813)に記録された飛騨国郷帳では高150石。元禄検地反歩帳では高50石余、田4町余・畑2町5反余と記されてます。
現在は宿場町時代の賑わった印象が失われましたが、素朴な集落景観が見られます。
飛騨街道:宿場町・再生リスト
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