杉原宿

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杉原宿:略データ
・場 所・岐阜県飛騨市宮川町杉原
・概 要・当地は、平安時代に富安郷に属していたと見られ、中世に富安郷から小鷹利郷が分かれると小鷹利郷に属しました。

小鷹利郷は飛騨国司である姉小路氏の一族小鷹利郷氏が配されている事から当地もその支配下にあった可能性があります。

姉小路頼綱は武田家滅亡後、佐々成政に与した為、天正13年(1585)に成政と敵対していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣である金森長近の侵攻を受け没落しています。

江戸時代に入ると金森長近は高山藩を立藩、当地もその領域となり、慶長18年(1613)に記録された飛騨国郷帳によると杉原村は小鷹利郷に属し、高四六石余と記されています。

元禄5年(1692)に高山藩6代藩主金森頼?が出羽国上山藩に移封になると、高山藩は廃藩、その後は幕府の直轄領である天領となり、高山代官陣屋支配となっています。

元禄検地帳によると高52石余、田8反余、畑11町3反余、漆畑1反余、焼畑2町1反余、名請人は寺とも15人、屋敷持17人、小豆沢村からの入作者10人と記されています。

飛騨国中案内によると免2割8分1厘余、家数13軒、内訳は寺1軒、百姓18軒、門屋4軒、対岸の巣納谷村には籠渡場で繋がっていました。

鎮守である春日神社が何時頃開創されたのかは判りませんが、天文10年(1541)銘の鰐口を所蔵している事から少なくとも室町時代には既に鎮座していたと推定され、元禄7年(1694)の検地の際には除地四畝歩が認められています。

当地に境内を構えている玄昌寺が何時頃開創されたのかは判りませんが、元和6年(1620)に素玄寺2世である各翁門越大和尚により中興された曹洞宗の寺院です。

玄昌寺は円空作の韋駄天像を所有し、越中西街道沿いの加賀沢村や蟹寺村、猪谷村等にも多数の円空仏が現存している事から杉原村にも円空上人が訪れていた可能性が高いと思われます。

円空作の韋駄天像は貴重な事から飛騨市指定文化財に指定され、円空所縁の寺院が中心となる飛騨三十三観音霊場の第19番札所に選定されています。

杉原村内に流れる宮川には高さ1丈半(約5m)の大瀑があり、そこに遡上する魚を「一ノ瀬の仰天網」と呼ばれた仰天網を仕掛けて漁をする事が風物詩となっていました。

特にサクラマスは絶品の名物として「杉原鱒」と呼ばれ近隣の住民だけでなく、越中西街道を利用する旅人や商人達が挙って買い求め、多い時は1日で100余匹も捕獲し高山や古川にも売り出していたそうです。

安政5年(1859)に越中国と飛騨国の国境付近を震源とするマグニチュード推定7〜7.1の飛越地震が発生すると飛騨地方が甚大な被害を受けました。

特に小嶋郷、小鷹利郷、下高原郷、大野郡の白川村の被害が大きく家屋の倒壊や山崩れにより道路や橋、用水路等が崩壊、越中西街道も不通となっています。

杉原村では東西の岸上部が崩落し大瀑が埋まってしまい、単なる深淵になった事から仰天網は行われなくなったとされます。

隣接する小豆沢村では人家も畑も残らず崩落した事から小豆沢村にあった幕府の口留番所が杉原村に遷されています。

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