【 郡上八幡城 】−郡上八幡城(群馬県郡上市)は戦国時代の永禄2年(1559)に遠藤盛数によって築かれました。遠藤氏は周辺を支配する土豪で、戦国時代には美濃の斎藤氏に従属し、斎藤氏が没落すると織田氏、武田氏の動性を窺い、武田信玄が死没し、織田信長の台頭が明白になると織田氏に従いました。その後は織田家の家臣金森長近に属し甲斐、信濃侵攻に功績を挙げ、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が倒れると、信長の3男織田信孝に従っています。立花山の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)方に敗れると、大きく領地が削減され、天正16年(1588)には稲葉貞通が新しい郡上八幡城の城主として入封し、大きく城郭が拡張されています。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、当初、西軍方に就いた稲葉貞通が犬山城(愛知県犬山市)に入った事を受け、東軍方に与した旧城主遠藤慶隆が金森可重が郡上八幡城を攻め、急いで引き返した稲葉勢と激戦の末勝利、本戦である関ケ原の戦い後に旧領復帰が認められ2万7千石をもって郡上藩を立藩し、郡上八幡城はさらなる拡張整備が行われ、藩庁と藩主居館が設けられています。元禄5年(1692)に遠藤胤親が移封になった後は、井上家、金森家、青山家が藩主を歴任して明治維新を迎え、明治4年(1871)に郡上藩の廃藩を持って郡上八幡城も廃城となっています。
【 城下町 】−郡上八幡は戦国時代の永禄2年(1559)に遠藤盛数によって築かれた郡上八幡城の城下町として発展しました。江戸時代に入ると郡上藩が立藩、3代藩主遠藤常友が八幡城を大改修し城下町も大規模に改変整備しました。八幡城の麓にある柳町と殿町は武家地、西側にある職人町、鍛冶屋町、本町と大手筋に町割された大手町は町人町として住み分けられました。豊富な水源地もあり町中には水路が張り巡らされ特徴ある町並みを形成しています。現在でも古い町並みが随所に残り郡上市八幡町大手町の全域並びに八幡町柳町、八幡町字一ノ平、職人町、鍛冶屋町、殿町、本町、桜町、桜町字一ノ平、小野字ヒツツリ、初音字代官町及び初音字惣門の各一部、面積約14.1ヘクタールが名称「郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区」として平成24年(2012)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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