白山長滝神社(郡上市)概要: 白山長滝神社は岐阜県郡上市白鳥町長滝大門に鎮座している神社です。白山長滝神社の創建は養老元年(717)、泰澄大師(白山を開山)が開いたのが始まりと伝えられています。
白山は石川県白山市と岐阜県大野郡白川村、福井県勝山市にまたがる標高2702mの名峰で、山容や山頂付近の神々しい景観、有史以来何度か火山活動した事などから神聖視されるようになり、富士山、立山と共に日本三霊山の一つに数えられる霊山として信仰の対象となりました。白山を開山した泰澄大師が関わったと伝わる社寺は岐阜県や石川県、福井県で主に見られ、白山長滝神社もその代表する祭祀施設の一つとして発展しました。
白山長滝神社は現在は神社ですが、創建当初は長滝寺と称する仏教色が強い存在で、養老6年(722)元正天皇の病気快癒の祈願が行われ、見事病気が平癒したことから十一面観音像、聖観音像、阿弥陀如来像が奉納され、白山中宮長滝寺に改称、以来神仏習合の古社として朝廷や領主から崇敬庇護されました。
当初は法相宗でしたが天長5年(828)に天台宗に改宗し比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)の別院になりました。古くから神仏習合し美濃馬場と呼ばれ、加賀馬場(白山比盗_社:石川県白山市)と越前馬場(平泉寺白山神社:福井県勝山市)と共に白山信仰三馬場の1つに数えられました。
パワースポットと知られる長滝白山神社の境内
白山信仰が盛んになると白山長滝神社の社運が隆盛し、最盛期には境内には社殿、堂宇など30余棟の建物が建ち並び、六谷六院、僧坊三百六十を擁し、1万3千石を領する大社(大寺院)となりましたが治安3年(1023)の山津波により大きな被害を受け六十余坊が土砂に埋まり、文永8年(1271)には火災により14棟の建物が焼失しています。
正和年間(1312〜1316年)頃に再興が図られましたが、永禄2年(1559)に発生した東殿山城を巡る合戦の兵火により大きな被害を受け、永禄11年(1568)には当時の領主となった織田信長から制札を賜り境内の保護を受けています。
白山長滝神社は歴代領主である東氏や遠藤氏から庇護されたものの次第に衰退し戦国時代に浄土真宗が席巻すると多くの末寺が改宗、それでも江戸時代には郡上藩(藩庁:郡上八幡城)からは寺領76石が安堵され20余坊、数院を擁していました。
又、江戸時代中期の寛保3年(1743)に平泉寺白山神社(福井県勝山市)と激しい本社争いが発生し裁定により平泉寺白山神社に軍配があがり面目を潰しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により白山長滝寺と分離、明治32年(1899)の大火により多くの社殿が焼失し大正年間(1912〜1926年)に再建されています。
白山長滝神社:上空画像
白山長滝神社本殿(大御前社)は大正8年(1919)に造営されたもので、切妻、鉄板葺、平入、神明造、桁行6間、梁間3間、中央部の屋根が高く持ち上げられ、左右は翼舎風、扉が3カ所ある事から祭神である菊理媛神、伊弉諾尊、伊弉冉尊がそれぞれ祭られている事が推察されます。本殿(大御前社)の向かって左側は、越南知社(祭神:大己貴尊)で三間社神明造、銅板葺き。右側は別山社(天忍穂耳尊)で越南知社と同様に三間社神明造、銅板葺き。
白山の山頂は大きく「大汝峰」「御前峰」「別山」の3つの峰で構成されている事から、大汝峰=越南知社、御前峰=大御前社(本殿)、別山=別山社にそれぞれ見立てた社殿の配置となっています。又、本殿前の透塀にはそれぞれ中門(切妻、銅板葺、一間一戸)が設けられています。
白山長滝神社拝殿は入母屋、鉄板葺、平入、桁行10間、梁間8間、正面から6間分の外壁は吹き放し。現在でも白山長滝神社の拝殿の向かって左側には長滝寺の本堂があり、参道沿いには経聞坊と宝幢坊、阿名院などの坊舎が軒を連ねるなど、神仏習合時代の名残が感じられます。祭神は菊理媛神(白山比盗_・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊。
白山長滝神社の文化財
・ 鉄製斧(入峯斧)−国指定重要文化財
・ 銅仏餉鉢3口−正和3年・元亨3年・延文2年−国指定重要文化財
・ 鉄蛭巻手鉾−国指定重要文化財
・ 古瀬戸黄釉瓶子2口−正和元年−国指定重要文化財
・ 石燈籠−正安4年−国指定重要文化財
・ 六日祭(花奪い祭)−国重要無形民俗文化財
・ 能面25面・和鏡12面・他6点−岐阜県指定重要文化財
長滝白山神社:周辺駐車場マップ
|