北方城概要: 北方城は明応年間(1492〜1501年)伊賀太郎左衛門光就が築城したのが始まりと伝えられています。4代後の守就(安藤に改姓)は美濃守護職土岐氏の重臣で西美濃三人衆(氏家直元(卜全)・安藤伊賀守就・稲葉良通(一鉄))の1人に数えられ、その後、斎藤道三に仕え、さらに織田信長(岐阜城の城主)に与するようになります。
守就は織田信長の有力武将として各地の戦を転戦し大功をたて地位も確立しましたが、天正8年(1580)、嫡男である尚就が武田氏と内通をしたという嫌疑で失脚し北方城を没収されます。
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死去すると守就は北方城を急襲し奪還しますが稲葉一鉄に攻められ落城、主だった伊賀一族は討死しました。北方城はその後廃城となり、江戸時代には城域の一部が北方陣屋として整備され引き続き行政の中心を成しました。
北方城は平城で90m、120m四方の本丸を中心に3町四方の規模だったとされ、堀として利用していた天王川や水路が残るものの市街化された為、ほんど遺構が残っていません。北方城跡は昭和43年(1973)に岐阜県指定史跡に指定されています。
北方城:上空画像
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