来振寺(大野町)概要: 宝雲山来振寺は岐阜県揖斐郡大野町稲富に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。来振寺の創建は霊亀元年(715)、行基菩薩が開山したのが始まりと伝えられています。
当初は法相宗の寺院で新福寺と称していましたが、神亀2年(725)、背後の山の山頂に初夏なのに黄色い雪が降り積もる奇跡が起こり、この話を聞いた聖武天皇は白山権現菊理媛神の神意と悟り、山頂に来振神社を建立し、当寺の寺号を来振寺に改称、神社の神宮寺とし、天皇の勅願寺となりました。
承平7年(937)に法相宗から真言宗に改宗、その後、寺運が隆盛し境内には七堂伽藍が建ち並び中世には200名を超える僧兵を擁する大寺となりました。
鎌倉時代初頭頃には当時の美濃国守護職の梶原景時が源頼朝の命により源義経を追討する際、来振寺を訪れ戦勝祈願を行っています(結果的には義経を取り逃がし奥州平泉に逃げられています)。享禄3年(1530)に洪水により大きな被害を受け、さらに永禄3年(1560)に織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失し一時衰退します。
慶長から元和年間(1596〜1623年)に豊臣秀吉、徳川家康が寺領を安堵したことで再興され、江戸時代は大垣藩(藩庁:大垣城)の藩主戸田氏から庇護、宝永6年(1709)には儀山僧正が智山派12世管長に就任するなど寺運が上がり、境内も随時整えられていきました。
又、儀山僧正は、赤穂藩の筆頭家老だった大石良雄(大石内蔵助)と親交があった事から元禄14年(1701)から元禄15年(1702)に発生した赤穂事件(吉良邸討ち入り)で大石が江戸入りする際には来振寺を訪れ戦勝祈願を行い、見事念願成就したと伝えられています。現在でも国宝に指定されている絹本著色五大尊像をはじめ数多くの文化財を所有しています。
来振寺山門は入母屋、銅板葺き、三間一戸、桁行3間、梁間2間、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、上層部四周高欄付き、下層部左右には金剛力士像安置、中央には「宝雲山」の山号額が掲げられています。
西美濃三十三霊場第二札所。美濃四国八十八箇所霊場第五十五番札所。山号:宝雲山。院号:明星院。宗派:真言宗智山派。本尊:十一面観世音菩薩。
来振寺の文化財
・ 絹本著色五大尊像−寛治年間−国宝
・ 絹本著色如意輪観音図−岐阜県指定重要文化財
・ 絹本著色弘法大師御影図−岐阜県指定重要文化財
・ 絹本著色蓮台阿字−岐阜県指定重要文化財
・ 絹本著色閻魔曼荼羅図−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色日光菩薩像−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色十三仏図−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色千手観音像−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色如意輪観音像−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色十六善神図−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色弘法大師像−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色興教大師像−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色涅槃図−大野町指定重要文化財
・ 絹本著色阿宇二菩薩図−大野町指定重要文化財
・ 木造十一面観音菩薩立像−大野町指定重要文化財
・ 木造不動明王立像−大野町指定重要文化財
・ 木造弁財天座像−大野町指定重要文化財
・ 木造大日如来座像 金剛界 胎蔵界−大野町指定重要文化財
・ 木造弘法大師座像−大野町指定重要文化財
・ 木造興教大師座像−大野町指定重要文化財
・ 木造地蔵菩薩半跏像−大野町指定重要文化財
・ 木造円空仏大日如来像−大野町指定重要文化財
・ 懸仏−大野町指定重要文化財
・ 大般若経−大野町指定重要文化財
・ 般若心経(伝行基筆)−大野町指定重要文化財
・ 大日経(尊円法親王筆)−大野町指定重要文化財
・ 来振寺出土蔵骨器−大野町指定重要文化財
・ カヤ−大野町指定天然記念物
・ イチョウ−大野町指定天然記念物
・ ツバキ−大野町指定天然記念物
・ 駕篭−大野町指定有形民俗文化財
・ 節分星まつり−大野町指定無形民俗文化財
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来振寺:上空画像
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