大垣城(別名:麋城・巨鹿城)概要: 大垣城は室町時代、東大寺城と称し大垣氏(大井庄代官)が築城したのが始まりと伝えられています。天文4年(1535)、美濃守護職家臣宮川安定が本丸、二ノ丸を整備し、永禄4年(1561)に氏家直元が大規模な改修を加えています。
大垣城は交通の要衝で戦略的にも重要視された為、豊臣政権下では天正11年(1583)に秀吉家臣である池田恒興、天正16年(1588)には一柳直末が城主となりそれぞれ整備拡張に努めています。天正17年(1589)には秀吉の甥である羽柴秀勝が入り、慶長元年(1596)には伊藤祐盛によって天守閣が築かれています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には当時の大垣城の城主伊藤盛宗が西軍に付いた為、石田三成をはじめ西軍10万の拠点となりましたが、本隊が関ヶ原で敗退すると、すぐさま東軍に取り囲まれ落城しています。当初、石田三成は大垣城に籠城しようと策をたてたようですが、東軍が京都、大坂に向かう素振を見せた為、急遽関ヶ原に布陣したと推察されています。
大垣城:上空画像
江戸時代に入ると譜代大名で、関ヶ原の戦いの際に尾張国清洲城(愛知県清須市)の守備や石田三成の居城である近江国佐和山城(滋賀県彦根市)攻めに参加した石川康通が5万石で大垣城に入り、大垣藩を立藩しています。
元和2年(1616)に3代石川忠総が1万石加増の上で豊後日田藩に移封になると、松平忠良が大垣藩に入封、寛永12年(1635)に戸田氏鉄が入封するとようやく安定し大垣城は戸田氏11代の居城として明治維新を迎えます。
明治6年(1873)に大垣城は廃城となり多くの建物が破却、払い下げられましたが、四重四階総塗りごめの天守閣が残され昭和11年(1936)には国宝に指定されました。しかし、昭和20年(1945)の空襲により大垣城は焼失し天守閣や残された櫓なども類焼しています。
現在は当時の建物を模した天守閣や城門、櫓などが建てられ、本丸と二の丸は大垣公園として整備され、昭和31年(1956)に名称「大垣城跡」として大垣市指定史跡に指定されています。
又、大垣城の遺構としては鉄門が鵜沼宿町会館の向かい、不明門が瑞穂市穂積の民家、清水口御門が平林荘跡、本丸乾門が大垣市青野町の民家、不明門が大野町の牧村家住宅にそれぞれ移築されています。
大垣城:周辺駐車場マップ
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