|
大垣市(歴史)概要: 大垣市の西部に位置する荒尾南遺跡は縄文時代晩期から古墳時代前期の竪穴建物跡402軒、弥生時代後期から古墳時代前期の掘立柱建物跡22棟、弥生時代前期から古墳時代初期の方形周溝墓136基などが発見され、当時から多くの人々が生活を営んでいた事が判ります。
大垣市は比較的弥生時代の遺跡が多く、十六町から出土した十六銅鐸や東町田遺跡から出土したパレススタイル壺など意匠に富んだものも見られます。
古墳も多く存在し、昼飯大塚古墳や東町田古墳群、荒尾古墳群、粉糠山古墳、長塚古墳、遊塚古墳跡、車塚古墳などがあり史跡指定されています。
中でも昼飯大塚古墳は4世紀末期頃に築造された前方後円墳で、墳丘長150m、高さ13mは岐阜県内最大規模を誇ります。
墳丘は三段築成で表面は葺石で覆われ、墳頂部には形象埴輪が配されていました。
埋葬施設は3基で調査はまだ行われていませんが、周囲からは複数の副葬品が発見され、規模や形式、副葬品の豊富さなどから、大王クラスの豪族の存在と大和王権との繋がりが判る遺構として貴重な事から国指定史跡に指定されています。
律令制度下では条里制により土地の区画整備が行われ、南一色町に当時の遺構が残されており、貴重な事から大垣市指定史跡に指定されています。
京都と関東を結ぶ官道である東山道が開削されると宿駅が整備され大垣市内には青墓宿が設置されました。
青墓は遊女や傀儡子達が様々逸話を残し、それらが「梁塵秘抄」や「十訓抄」、「詞花和歌集」、「吾妻鏡」、「保元物語」、「平治物語」などに記されています。
天平9年(737)には聖武天皇の勅願により行基菩薩が美濃国分寺を開創し、美濃国内の文化の中心的な地域だった事が窺えます。
奈良時代には大井荘と呼ばれる東大寺の荘園も成立し、大中臣氏が下司職として支配し、中河御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園は、荘園代官だった大井氏が領主として支配していました。
大垣市内で延喜式神名帳に記載されてる式内社は墨俣神社と荒方神社の2社で、古くから格式の高い神社として中央からも認識されていたようです。
室町時代に入ると、京都へと続く交通の要衝だったことから美濃国守護職の有力家臣である宮川氏や氏家氏が領主となり、文安年間(1444〜1449年)に安八郡大井荘石包名の代官職だった大垣中務丞氏信が東大寺城を築き、歴代大垣氏の居城となりました。
しかし、天文4年(1535)に美濃国守護職土岐家の一族で若森城の城主安川安定が舅である大垣彦五郎長家を攻め滅ぼしています。
一方、宇多源氏佐々木氏流大原氏の流れを汲む竹越尚綱が明応9年(1500)に大垣に城を築き当地を支配しました。
リメイク版の大垣市の動画
竹越重直は斎藤道三に仕え重用され、6万石を領したものの、長良川合戦では斎藤義龍方に与し、討死、一族は斎藤家が没落後に徳川家康に従っています。
織田信長の美濃侵攻の際には、その拠点として木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が墨俣城を一夜にして築城したと伝えられています。
永禄2年(1559)に西美濃三人衆に数えられた氏家直元が大垣城に入り、当初は土岐家、斎藤家に従っていましたが永禄10年(1567)に織田信長に転じ、以後、織田家の家臣として各地を転戦しています。
又、永禄年間(1558〜1570年)には同じく西美濃三人衆に数えられた稲葉良通が曽根城を築き、直元と安藤守就と共に織田家に転じています。
直元の跡を継いだ氏家直昌は天正10年(1582)に発生した本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、天正11年(1583)に直昌が死去すると、跡を継いだ氏家行広はあからさまに美濃国三塚に移封させられ、要衝であった大垣城には重臣だった池田恒興が15万石で配されています。
その後も豊臣政権下では、羽柴秀勝など有力家臣や一族が配されている事から大垣の地が重要視されていた事が窺えます。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの際、大垣城は西軍の軍事的重要拠点として機能しましたが、本戦で西軍が敗北した後に東軍の攻撃により落城しています。
江戸時代に入り石川康通が5万石で入封すると大垣藩を立藩、元和2年(1616)に跡を継いだ石川忠総が大坂の陣で戦功を挙げた事で豊後日田藩に移封となると松平忠良が5万石で入封しています。
寛永元年(1624)に松平憲良が信濃小諸藩に移封になると、岡部長盛が5万石で入封し、寛永10年(1633)に岡部宣勝が播磨龍野藩に移封になると、松平定綱が6万石で入封しています。
寛永12年(1635)に定綱が伊勢桑名藩に移封になると、戸田氏鉄が10万石で入封し、以後、戸田家が藩主を歴任し、明治維新を迎えています。
幕末の鳥羽伏見の戦いでは幕府軍の一翼として新政府軍と戦いましたが、戊辰戦争の際には幕府を見限り、新政府軍に積極的に協力し、賞典禄として3万石が下賜されています。
大垣藩以外には、幕府の若年寄等の要職を歴任した稲葉正休が天和2年(1682)に1万2千石をもって青野藩を立藩しています。
しかし、貞享元年(1684)に正休が江戸城内で大老だった堀田正俊を刺殺した際、大久保忠朝等によって殺害された為、青野稲葉家は断絶、青野藩も廃藩となっています。
美濃国石津郡多良郷は高木貞利を祖とする西高木家2千3百石、高木貞友を祖とする東高木家1千石、高木貞俊を祖とする北高木家1千石からなる交代寄合美濃衆が領しました。
根拠地となる西高木家陣屋は中世の城郭である多羅城の一画に設けられてもので、現在も保存状態が良く貴重な事から国指定史跡に指定されています。
大垣市・歴史・観光・スポットの動画の再生リスト
|