御嵩町(歴史)概要: 御嵩町比衣に位置する金ケ崎遺跡は弥生時代から近世にかけての遺跡で、弥生時代末期の方形周溝墓群や竪穴住居跡、多孔銅鏃、土器などが発見され、当時から人々の生活が営まれていた事が窺えます。
御嵩町顔戸に位置する顔戸南遺跡は古墳時代の集落跡で、掘立柱建物跡や竪穴住居跡、土坑、土器などと共に、古墳時代の灌漑施設が検出され貴重な存在です。
御嵩町中に位置する宝塚古墳は5世紀頃に築造された直径42.8mの円墳で、高さ9m、2段築成、表面は葺石、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
御嶽町中切に位置する中切古墳は全長42mの前方後円墳で、表面葺石、玄室の長さ7.3m、羨道の長さ3.3m、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
御嵩町伏見に位置する東寺山古墳は4世紀中頃に築造された1号墳と2号墳があり、1号墳は後円部直径26m、高さ3.5mの前方後円墳で、四乳四獣鏡一面・銅鏃・直刀・土師器が出土しています。
2号墳は全長58m、後方部一辺32m、高さ4.5m、前方部一辺16m、高さ2.1mの前方後方墳で、1号墳、2号墳共に貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
御嵩町伏見塚穴町に位置する山田横穴墓群は凝灰質砂岩に掘られた横穴墳で、7基中6基が現存し、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
古くから交通の要衝として知られ、律令制が制定され東山道が開削されると御嵩町もその経路上にあったとされ、当地にはその駅家である可児駅が設置されています。
可児駅は「和名抄」で記載されている美濃国可児郡駅家郷に置かれ、比定地は現在の御嵩町宿、又は「ごうど」が「ぐうけ」に似ている事から御嵩町顔戸の2説あり定まっていません。
東山道は多くの文人墨客、旅人が利用し、寛仁3年(1019)には平安時代の三大女流歌人に数えられた和泉式部もこの地を訪れた際、病気によって亡くなったと伝えられています。
白鳳時代から奈良時代成立後には現在の願興寺の境内に古代寺院があったとされ、当時の鐙瓦が発見されています。
そして、弘仁6年(815)に伝教大師最澄が荒廃した古代寺院を再興し、願興寺を開山、当寺は当地域の天台宗布教の拠点として大きく寺運が隆盛し、門前町も大いに賑わったとされます。
願興寺は寺宝が多く、天正9年(1581)に造営された本堂をはじめ、木造薬師如来像及び、脇侍像、木造阿弥陀如来像、木造阿弥陀如来像、木造釈迦如来像及び脇侍像、木造四天王立像、木造十二神将立像が国指定重要文化財に指定されています。
中世は小栗氏や小倉氏、斎藤氏、長谷川氏などが割拠し、小栗氏は御嵩城、小倉氏は小原城、斎藤氏は顔戸城、長谷川氏は上恵土城などの城郭を築いています。
リメイク版の御嵩町の動画
小栗重則は美濃高山城を一時占拠したものの、遠山、平井、小里連合軍との激闘の末、敗北、跡を継いだ小栗教久は織田信長に従い、織田家家臣森家の配下に組み込まれたようです。
小栗領は織田領と武田領との境界線に近く、居城である御嵩城は織田家の最前線として重要視され、天正2年(1574)に織田信長、織田信忠父子が明知城に進軍した際には宿泊地として利用されています。
武田家も度々襲撃、御嵩城の石垣を攻め上がろうとした際には守護神である白蛇が出現し、その御加護により石垣の隙間から霧が立ち込め武田勢が敗走したと伝えられています。
その後の小栗家の動向は判りませんが、金山城主だった森忠政が、信濃・川中島へ移封されると御嵩城は廃城になったと推定され、江戸時代に中山道の宿場町である細久手宿の本陣家、脇本陣家共に小栗姓である事から、少なくとも一族の一部は帰農したと思われます。
小倉氏の詳細は不詳ですが、小栗家と共に高山城を攻めたものの、遠山、平井、小里連合軍に敗れ、その後、武田家に属した後、結果的に帰農したそうです。
又、小倉氏の崇敬社だった白山神社から十字架が発見された事から切支丹だったという説があります。
長谷川五郎右衛門は天正10年(1582)に発生した本能寺の変後に金山城に入った森長可の正統性を疑った、肥田忠政や大森城主奥村元広と共に異を唱えています。
これにより、森家と激しく対立し大軍を差し向けられた為、奥村元広は大森城を捨てて落ち延び、上恵土城も落城、長谷川五郎右衛門は自刃したと伝えられています。
江戸時代に中山道が開削すると、御嵩町では49番目の宿場町である御嶽宿と50番目の伏見宿が設けられました。
伏見宿は元々、正式な中山道の宿場町ではありませんでしたが、木曽川の下流にあった土田宿が大洪水で大破した為、洪水の被害が少ない当地に新たな宿場町が開かれています。
御嵩宿は最澄が開いたと伝わる願興寺の門前町として発展した町で、江戸時代後期の記録によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒の規模だったと記されています。
伏見宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒、多くの飯盛女が雇われ賑わったとされ、洞興寺の境内の一画には「女郎塚」と呼ばれる多数の石仏が祀られています。
又、文政7年(1824)に幕府の献上品だった駱駝が、幕府から拒否され興行師が引き取る事となり、伏見宿で3日ほど滞在した事でも知られています。
御嵩町・歴史・観光・スポットの動画の再生リスト
|