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土岐市(歴史)概要: 土岐市は少ないながらも妻木平遺跡などから縄文時代の住居跡が発見され、当時から人々が生活していた痕跡が見られます。
古墳時代になると開発も進み、乙塚古墳や段尻巻古墳、炭焼古墳など複数の古墳が点在し、身分が明確となり首長クラスの豪族が存在していた事が窺えます。
乙塚古墳は古墳時代後期の7世紀前葉から中葉に、美濃国の豪族八坂入彦命の一族が築造したと推定される方墳で、方27.0m、高さ5.8m、県内最大級の横穴式石室で貴重な事から国指定史跡に指定されています。
段尻巻古墳も乙塚古墳と同時期に築造されたと推定される円墳で、直径23.9m、高さ4.1m、石室が全長9.5m、花崗岩製、土岐市内で最大級の円墳で貴重な事から乙塚古墳の附として国指定史跡に指定されています。
地名の文献的初見は「日本書紀」天武天皇五年(六七六)四月二二日の条によると「礪杵郡に在る紀臣訶佐麻呂の子をば東国に遷して、即ち其の国の百姓とせよ」と記されています。
同じく「日本書記」の朱鳥元年(六八六)一〇月二日条によると大津皇子事件で、天武天皇に謀反を起こした大津皇子に味方し、伊豆に配流となった帳内礪杵道作の名を見る事が出来ます。
鎌倉時代初期頃に荘園である妻木保が成立したようで、「華頂要略」の建長元年(1249)九月七日条に「妻木保」、青蓮院門跡の尊円親王(1298〜1356年)が編纂した青蓮院の寺務記録である「門葉記」には「正月檀供人供 美濃国妻木保」と記載されています。
妻木平遺跡には鎌倉時代の南北35m以上、東西36m以上の方形に区画された溝と掘立柱建物跡、その一段下には祭祀場と思われる遺構が見られる事から、荘園の管理者の館跡と推定されています。
その後は、美濃国守護職である土岐頼貞の領地だったようで、孫で明智氏の祖となった土岐頼重に譲渡され、以後、土岐明智氏が支配しました。
妻木平遺跡の室町時代の東辺87m、南辺111mの濠と、その内側にある掘立柱建物跡は、土岐明智氏の居館の跡と推定されています。
その後、土岐明智家の一族とされる妻木氏が配され、居城である妻木城を拠点として当地を支配しました。
リメイク版の土岐市の動画
妻木氏は土岐光定の9世後裔の彦九郎弘定が美濃国土岐郡妻木郷を本貫とした事から「妻木」姓を掲げた氏族で、元応2年(1320)には妻木頼重が妻木城を築いたとも云われています。
天正10年(1582)に発生した本能寺の変の際、当時の当主妻木弘忠は明智光秀の奥方である煕子が妻木氏の出身だった事から明智光秀に協力した事で自刃に追い込まれています。
跡を継いだ妻木貞徳は織田家の重臣森長可に攻められ、和睦、その後は森家に従っています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで妻木頼忠は東軍として行動し、東濃の戦いで功績を挙げた事で本領美濃国土岐郡内8ケ村7千5百石が安堵され、交代寄合旗本の格式を得ています。
頼忠は居城だった妻木城を廃して麓に妻木城士屋敷を設けて、ここを拠点とし領内整備に尽力しています。
承応元年(1652)に妻木頼利が死去すると、その後継を巡り、長子の頼次と弟の幸広が激しく対立し妻木騒動が勃発、結局、幸広に美濃国土岐郡大富村5百石を分知し、7千石となっています。
万治元年(1658)、妻木頼次が嗣子を決めないまま死去した事から断絶となり、代わって、頼次の弟である妻木幸広が土岐郡大富村5百石から、妻木上郷に配置替えとなり、明治維新まで領主を歴任しています。
又、江戸時代には中山道と尾張藩の藩庁が置かれた名古屋城の城下町を結ぶ下街道や、中馬街道の経路となり交通の要衝として発展しました。
中山道の宿場町としては、大湫宿と細久手宿が開宿、下街道の宿場町として開宿した高山宿は、中世の高山城の城下町でもあり、多くの史跡や名所が残っています。
又、陶器の盛んな地域としても知られ、縄文時代から受け継がれた技術は室町時代に花開き、久尻元屋敷窯では幅3メートル、長さ30メートルの登窯には14の連房が備えられ当時の美濃焼き技術の一端を見ることが出来ます。
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