恵那市明智町(歴史)概要: 明智町は鎌倉幕府の御家人加藤景廉が遠山荘を与えられ開発した地域です。宝治元年(1247)には明智城を築き歴代の居城とすると、明智遠山氏と名乗り長くこの地を支配し、一族の中でも遠山七家や三遠山家に数えられる程繁栄しました。
戦国時代に入ると明智遠山家は「岩村遠山家」、「苗木遠山家」と共に「遠山三家」に数えられ、周辺地域に対して影響力がありましたが、当地域は美濃国(岐阜県)と信州(長野県)との国境に近い事から、武田家や織田家、徳川家などの侵攻を受け、豊臣秀吉の時代になると明智遠山家も一時没落しました。その後、徳川家に身を寄せる事になり、慶長5年(1600)に発生した関が原の戦いで東軍に組した事で復権し遠山利景は旧領(6530石)の支配権が認められています。
元和元年(1615)の一国一城令により明知城は廃城となりましたが、麓に陣屋を構え、引き続き陣屋町として発展しました。明智遠山家は定府の旗本だった為、実際には代官の村上氏が政務を執り行い、南町奉行を担いテレビ時代劇「遠山の金さん」のモデルとなった遠山左衛門尉景元は、智遠山氏の分家とされます。
特に、当地は飛騨高山(岐阜県高山市)と岡崎城下(愛知県岡崎市)を結ぶ南北街道と、名古屋城下(愛知県名古屋市)と飯田城下(長野県飯田市)を結ぶ中馬街道が交差する交通の要衝だった事から多くの旅人や商人が行き来し済的にも発展しました。
明治時代に入ると養蚕や製糸業などで発展し、往時は20数社の製糸工場が建てられた活況を呈したそうですが、製糸業が衰退すると窯業を主産業に転じ、その後の近代化が図られず良好な町並みが残される結果となりました。
現在残されている建物の多くは明治時代から大正時代に建てられたもので、現在は「日本大正村」を旗印に大正時代に建てられた濃明銀行の繭蔵を「日本大正村資料館」、明治時代後期に建てられた明智町役場は「日本大正村役場」、明治時代後期に建てられた旧橋本家家住宅を「大正の館」、大正時代に建てられた「歯科医院跡」などがあります。
又、明智光秀は明智遠山家の出身とも云われ、光秀縁の柿本人麻呂社(八王子神社の境内社、社殿は岐阜県指定文化財、光秀手植えの楓あり)や、遠山家の菩提寺である龍護寺などがあり境内には光秀の供養塔が建立されてます。
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