明知陣屋(恵那市)概要: 元和元年(1615)、一国一城令が発令されると全国の多くの城が破却され、明智領主である遠山氏は6530石と城持大名の格式ではなかった為、遠山方景の代に居城である明知城を破却し大手門付近に陣屋を構える事になりました。
又、遠山家は当初は交代寄合として平時は明知陣屋に居し参勤交代を行っていましたが、江戸時代中期の延宝6年(1678)からは江戸定府となった為、明知陣屋には代官である村上氏が入り、領内の裁量権を得ました。
遠山家は長崎奉行、作事奉行、勘定奉行、北町奉行などを歴任し遠山景元は名奉行として知られ、後世には時代劇ドラマの主人公のモデルにもなっています。明知陣屋は表門の左右に水堀を設け、3方を土塁で囲ったもので代官として常駐した村上氏の居宅や御役所、書院、長屋、玄関、御用炭蔵、馬場、鬼門である北東の方角には鎮守社(豊国稲荷社)が設けられています。
その他にも、江戸時代末期の安政4年(1857)に描かれた明知陣屋の絵図によると、御門、御門番所、藤田広助御長屋、門田蔵造御長屋、村松雅太郎御長屋、安斉常五郎宅、中村早太御長屋、工藤新兵御長屋、土屋昇御長屋、山田小藤次御長屋、勝野直兵衛御長屋、裏御門、南御門、射小屋、木戸口などが配されていました。
現在の明知陣屋跡地の平地部分は畑地や宅地となっていますが堀や土塁が残されている他、村上氏の居宅や土蔵が昔のままの姿を留めています。
明知陣屋:上空画像
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