柿本人麻呂社(恵那市明智町)概要: 柿本人麻呂社の創建は不詳ですが伝承によると明智光秀が 柿本人麻呂(万葉歌人として有名な歌聖)の分霊を八王子神社の境内に勧請したのが始まりと伝えられています。現在の社殿は明智光秀が建立したと伝わる古建築物で一間社春日造、切妻、妻入、正面1向拝付、桁行約2.8m、梁間約1.5m、銅板葺、外壁は板張素地造、浜縁、高欄無し、脇障子無し、明智氏の家紋である桔梗が掲げられ、岐阜県指定文化財に指定されています。明智光秀の出生には諸説ありますが土岐頼遠が延元4年(1339)に守護所を長森城(岐阜市)に移した際、 明智宗家も当地から明智庄(可児市瀬田)に移ったとされ可児市瀬田説が有力とされます。当地の明智城も有力視されているものの、戦国時代には明知遠山家の支配下にあり、疑問視されています。ただし、遠山景行が光秀の叔父に当たる人物で、幼少時の光秀を補佐していたとの記述もあり、そうなると織田信長の正室である濃姫とは従兄妹の関係になってしまいます。そこで、光秀が出世したのは濃姫が関係者だったからとの説が浮上し、明智町に光秀縁の場所が多い事や明智家の家紋と遠山家の替紋が桔梗紋と同じ事などがそれらを補完していると言えます。正面の楓は明智光秀が手植えした大楓が昭和39年(1964)に枯死した為、植え替えられたものです。
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