明智城(白鷹城)概要: 明智城は鎌倉時代の宝治元年(1247)、加藤景廉が築いたと伝えられます。 加藤景廉は加藤景員の次男で、当初から源頼朝に従い源平合戦では源範頼軍に従軍し各地に転戦し、奥州合戦でも功を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人としても美濃国恵那郡遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)が与えられています。その後、後裔が明智遠山氏を名乗り、周辺を支配、遠山七家や三遠山家と呼ばれ一族の中でも勢力があったとされます。この地は美濃、信濃、三河と国境が近接している為、戦国時代は常に緊張状態となり、元亀3年(1572)の武田信玄の侵攻により明智城が落城、信玄の死去と共に遠山氏が復権しますが、天正2年(1574)に武田勝頼が侵攻すると再度落城、武田家の凋落と共に再び復権しますが、豊臣家の台頭により遠山氏は再度明智を後しにします。
関が原の戦いで東軍に組した遠山氏は恵那・土岐郡内で6700石の所領を与えられ、明智城を修復、再度領主の座に返り咲きます。元和元年(1615)、一国一城令が発令されると城主格でなかった為、明智城は廃城となり、麓に陣屋を構え徳川旗本遠山家として明治維新を迎えます。現在も明智城の城跡には空堀、土塁など遺構がよく残っています。又、明智遠山氏は明智光秀と遠縁にあたるとされ、明智城の城内には光秀産湯の井戸が残され光秀生誕地の1つとされています。
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