馬籠宿(歴史)概要: 馬籠宿は慶長6年(1601)に開削された中山道 の宿場町として整備されたもので、天保14年(1843:中山道宿村大概帳)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒、家屋数69軒を数えました。深い山間にある宿場で尾根に沿った斜面に計画されている為、街道は略坂道で、それに貼り付くように町屋が配され敷地背後は石垣を築くなど独特で印象的な景観が見られます。馬籠宿の集落的な発生は判りませんが、相模国三浦半島津久井(現在の神奈川県横須賀市)出身の島崎家が当地に流れ着き、木曾義在に仕える事で土豪として当地を開発したと考えられます。
島崎家の居城である馬籠城は天正12年(1584)に発生した小牧・長久手の戦いで徳川方の菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠が侵攻した為(現在、馬籠宿の高札場が設置されている付近が本陣だったとされます)、放棄し妻籠城まで退いています。天正10年(1590)に木曽家が徳川家の関東移封に伴い、木曽谷を離れると島崎家は帰農し、江戸時代に入り中山道の馬籠宿の町割りに協力した功により本陣職に就任しています。
馬籠宿は江戸日本橋から43番目の宿場町にあたり当時木曽街道と呼ばれた11の宿場町で 一番南側(木曽路の宿場町唯一の岐阜県 ※当初は歴史的な背景から長野県木曽郡山口村に属していましたが平成17年:2005年に経済的な繋がり等から岐阜県中津川市に編入された。)に位置し、隣の宿場町である妻籠宿との間には馬籠峠(標高:801m)、落合宿との間には十曲峠(標高:500m)と呼ばれる難所が控えていました。江戸時代末期の文久2年(1862)、皇女和宮が将軍家に降嫁の際、馬籠宿を通過しており、その様子が島崎藤村の代表作の1つでもある「夜明け前」に詳しく当時の様子が描かれ、馬籠宿では継ぎ立て人馬、延べ669疋が動員された事が記録に残っています。
歴史が感じられる馬籠宿の町並み
馬籠宿の本陣は島崎藤村の生家でもある島崎家が代々世襲し、脇本陣には蜂谷家(屋号:八幡屋、年寄役兼任)、問屋は大脇家(屋号:大黒屋)がその任にあたりました。本陣、脇本陣をはじめ、明治時代中期までは馬籠宿としての古い町並みが残されていましたが明治28年(1895)の大火で78棟、大正4年(1915)の大火で72棟と江戸時代以前の建物は殆んどが焼失しました(本陣の一部、隠居場などが現存しています)。
現在は昭和初期の建物が多いですが、その後も新建材での建替えが少なかった事から懐かしい町並みを形成し、当時のものは石畳や枡形、水路だけですが、全長600mの町並みの修景や高札場、水車などが再現されています。
馬籠宿:上空画像
又、「藤村記念館(馬籠宿本陣、島崎藤村生家跡、岐阜県指定史跡)」、「馬籠脇本陣資料館」、「清水屋資料館」、島崎家の菩提寺である「永昌寺」などがあり多くの観光客が訪れ、平成21年(2009)版のミシュラングリーンガイドブックでは「妻籠・馬籠宿」として★星(興味深い)を獲得して海外からも評価の高い観光地として整備されています。
中でも清水屋資料館は明治28年(1895)の大火後に建てられた町屋建築で主屋と土蔵が国登録有形文化財に登録されています(建物は明治時代の建物ですが島崎藤村の「嵐」の登場する森さん(原一平)の家です)。
【馬籠城】−馬籠城の築城年は不詳ですが室町時代には既に存在し、木曽地方の領主である木曽氏(木曽義仲の後裔とされる)の支配下にありました。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは当時の当主木曾義昌は豊臣秀吉に与し、家臣である島崎重通を馬籠城の城将として配し、徳川軍の木曽侵入を阻止しようとしました。
しかし、実際、徳川軍の大軍(菅沼定利、、保科正直、諏訪頼忠など)が攻め寄せると、大きな抵抗を見せず馬籠城を放棄して妻籠城に退いています。その後、馬籠城は廃城となり、江戸時代に入ると、島崎氏は馬籠宿の開発を任され本陣職に就任しています。島崎氏は明治維新に至るまで本陣職を歴任し、幕末には島崎藤村を輩出しています。
馬籠宿:周辺駐車場マップ
|