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本巣市(歴史)概要: 本巣市は古くから開けていた地域の1つで、宗慶大塚古墳は岐阜県内に残る古墳の中でも最古級の古さで美濃国造が埋葬されているとも言われています。
宗慶大塚古墳は古墳時代前期の4世紀後半から5世紀前半に築造されたと推定される前方後円墳で、墳長63m、後円部径42.3m、後円部高さ4.2m、前方部長31m、周濠幅9m〜13.4m、土師器の高坏や底部穿孔壺型土器等が出土、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
被葬者と推定される神大根王は開化天皇の皇子である日子坐王が父親、天御影命の娘の息長水依比売が母親とされ、古事記の開化天皇記によると三野国之本巣国造・長幡部連の祖、景行天皇記では美濃国造の祖として記されています。
船来山古墳群は濃尾平野の北縁部に位置する船来山に3世紀中期頃から7世紀後半頃までに築造された、円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳など約290基の古墳で構成される古墳群です。
船来山の頂部に築かれた5号墳は古墳群の中では最大の墳長約65mの前方後円墳で、当地の首長墓と目されています。
船来山古墳群は美濃地方最大規模で貴重な事から国指定史跡に指定され、出土物は船来山古墳群出土品として岐阜県指定文化財に指定されています。
古墳時代には本巣国造が設置され、大宝二年(七〇二)の御野国栗栖太里戸籍には「本簀」、藤原宮跡出土木簡には「三野国本□□(須郡)」、平城宮跡出土木簡には「和銅四年本須郡」と記されています。
「続日本紀」の霊亀元年七月二七日条によると、和銅8年(715)に本巣郡の一部を割いて席田郡が建郡し、旧糸貫町郡府に郡衙が設置されています。
席田郡の建郡に尽力した席田の君一族は当地に氏寺となる席田尼寺を創建、官寺に準ずる席田郡定額尼寺に指定され、仁和3年(715)に美濃国分寺が火災により大きな被害を受けると、当寺がその代用として利用されています。
律令制下で班田収授法が施行されると、当地にも条里による開発が行われ、現在も本巣市山口を北限とし、南へ一条から十九条までの条里が確認され、貴重な事から本巣市指定史跡に指定されています。
中央と関東、陸奥国を結ぶ官道である東山道が開削されると、本巣市内もその経路となり、現在もその一部の道筋が残され、貴重な事から本巣市指定史跡に指定されています。
中世に入ると、美濃国守護職である土岐氏一族やその家臣などが支配し、戦国時代には稲葉氏や古田氏などが割拠します。
稲葉氏は伊予の豪族河野通直の4男である通貞を祖とする氏族とも云われ、伊奈波神社を篤く帰依した事から「稲葉」姓を掲げ、当地に配されると軽海西城を築いたとされます。
応仁2年(1468)に稲葉氏が東美濃に遷った、その後、土岐頼芸の命により軽海西城が西村勘九郎(後の斎藤道三)に与えられています。
戦国時代に当地が織田領となると、永禄3年(1560)に家臣である池田恒興の家老、片桐俊元が軽海西城に入り、永禄4年(1561)に発生した斎藤龍興との抗争である軽海合戦では軽海西城が織田方の軍事拠点として利用されています。
豊臣政権下では天正17年(1589)に一柳直末が大垣城から5万石、又は6万石で配されたものの、天正18年(1590)に発生した小田原の役の山中城攻めで討死し、嫡男の松千代は奥方の黒田家に引き取られた為、一柳家は断絶し軽海西城も廃城となっています。
一方、古田氏の出自は不詳ですが、美濃国守護職土岐家に従い、天文元年(1532)に古田正重が山口城に配されています。
7代目古田重清は斎藤義龍と龍興に従い、重きを成した事で美濃十八将に数えられ、8代目古田重勝は豊臣秀吉に仕えて小田原の役や、朝鮮出兵に従軍し功績を挙げています。
江戸時代に入ると大垣藩に属し、主要な神社や寺院は藩主戸田氏から庇護され土地の寄進や建物の造営などが行われています。
一方、寛文8年に美濃加納藩から美濃国本巣郡、方県郡、度田郡内5千石が分知された戸田光正が幕府の寄合旗本に列格し、文殊の地に陣屋を構えています。
光正は戸田家の菩提寺となる照空寺を開創、歴代戸田家が領内の開発に尽力し、明治維新を迎えています。
本巣市内にある根尾谷断層と根尾谷の菊花石が国指定特別天然記念物、根尾谷淡墨ザクラが国指定天然記念物、真桑人形浄瑠璃は国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
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