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揖斐川町(歴史)概要: 揖斐川町には、はいづめ遺跡や、小の原遺跡、戸入村平遺跡、上開田村平遺跡、塚遺跡、山手宮前遺跡、小関御祭田遺跡、上原遺跡、梨子谷遺跡、細野遺跡、いんべ遺跡、岩井谷遺跡、尾元遺跡、寺平遺跡、櫨原神向遺跡、塚奥山遺跡、櫨原村平遺跡、など多数の縄文時代の遺跡がある事から当時から生活し易い環境だった事が窺えます。
一方、弥生時代の遺跡は少なく、はいづめ遺跡から弥生時代前期に土器棺墓として利用したと思われる土器が発見されています。
古墳時代に入ると七本松古墳、城ヶ峯古墳、北マモト古墳、中村古墳、竹蔵山古墳、三本松古墳などが築造され、小規模ながら首長と呼ばれる存在が割拠していたと思われます。
七本松古墳は一部が開発の為、形状が不明瞭になっていますが、円墳と推定され、貴重な事から揖斐川町指定史跡に指定されています。
三本松古墳の詳細も不詳ですが、揖斐川の段丘上に築かれた円墳で、一部葺石が見られ、貴重な事から揖斐川町指定史跡に指定されています。
時代が下ると開発も進み、特に大宝年間(701〜704年)には大和国から三輪族が入植したと思われ、当地の守護神として出身地である大和国の一之宮で日頃奉斎していた大神神社から御霊を勧請し三輪神社を開創しています。
一方、延喜式神名帳に式内社として記載されている花長上神社が創建、境内背後に控える花鹿山は、垂仁天皇に従った建岡君が登拝し、山頂から榊の枝で作った縵を力一杯に投げ、落ちた所に天甕津媛命を奉斎する阿豆良神社を開創し、品津別皇子が喋べれるように祈願したと伝えられています。
天平年間(729〜749年)には行基菩薩が行脚で当地を訪れた際、一宇を設け、地蔵菩薩を本尊として瑞巌寺が開山しています。
平安時代に入ると、摂関家の荘園である揖斐荘が成立、池田郡司職を歴任した紀氏が開発し、新熊野社に寄進、その後は高陽院や藤原基通、興福寺一條院などが領主となっています。
延暦20年(801)には桓武天皇の勅願で、当時の領主だった三和次郎太夫藤原助基が伝教大師最澄を招いて両界山横蔵寺を開創しています。
横蔵寺は鎌倉時代に38坊を擁する大寺院として寺運が隆盛し、現在でも木造薬師如来坐像や木造大日如来坐像、木造四天王立像など数多くの寺宝を所有し、美濃の正倉院の異名があります。
一方、華厳寺も延暦20年(801)に桓武天皇の勅願で陸奥国会津郡司で黒河郷の大口大領が創建したとの伝承を持っています。
リメイク版の揖斐川町の動画
華厳寺はその後も醍醐天王や朱雀天皇から帰依を受け、寛和2年(986)には花山法皇が西国三十三箇所霊場の満願寺に定められ、広く信仰を広めました。
南北朝時代に美濃国守護職だった土岐頼清の子供である土岐頼雄が当地に入部し、揖斐城を築城、地名に因み「揖斐」姓を掲げると、後裔が長く当地を支配しました。
天文16年(1547)に6代揖斐光親が斎藤道三の侵攻を受け揖斐城は落城、揖斐家は没落し、家臣だったものの離反し、斎藤家の被官となった堀池氏が支配しました。
斎藤家が衰退すると、離反して織田信長に従った稲葉良通の襲撃を受け、再び揖斐城は落城し、その後は稲葉家の持城となっています。
良通は清水城を築城し、本城にすると、揖斐城には良通の子供である稲葉貞通を配しています。
天正16年(1588)に良通が死去すると、貞通は曽根城に入り、清水城には稲葉重通が1万2千石で配され城主となっています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで、稲葉家は東軍として功績を挙げた事から、貞通は臼杵藩5万石に加増移封となり、重通の跡を継いだ通重も本領を安堵され清水藩を立藩しています。
しかし、通重は慶長12年(1607)に京都の祇園で7〜8人の豪商の婦女を茶屋に引き入れ、豪商の従者を切りつける失態をおかした為、改易となり、清水藩も廃藩となっています。
一方、揖斐城には関ヶ原の戦いで功績を挙げた西尾光教が3万石で入封、揖斐藩を立藩し、城下町の整備や領内の産業の振興などを行っています。
しかし、こちらも元和9年(1623)に2代藩主西尾嘉教が嗣子が無く病没したため断絶となり、揖斐藩は廃藩となっています。
その後、天領となりましたが、嘉永8年(1631)に旗本岡田善同が5千3百石で入封し揖斐城の麓に陣屋を設け、現在の揖斐川町の基礎となる町づくりを展開しています。
その後は岡田家の領主を歴任して明治維新を迎え、戊辰戦争の際には徳川将軍家を見限り、新政府軍に加担し各地を転戦しています。
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