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関ヶ原町(歴史)概要: 関ヶ原町中野に位置する中野遺跡には縄文時代中期頃の土器や住居跡が確認されています。
関ヶ原町蜻蛉谷に位置する小関御祭田遺跡からは縄文時代の竪穴建物や集石、土坑、縄文土器、石器、石製模造品等が発見されています。
弥生時代と古墳時代の代表する様な遺跡は存在せず、どの様な経緯を辿ったのかは判りませんが、古代には美濃国不破郡に属していました。
日本書記の斉明天皇六年(六六〇)一〇月条には「今美濃国の不破・片県、二郡の唐人等なり」と記載され、百済から献上された唐の俘虜が当地に配されていた事が窺えます。
天武天皇元年(672)に古代日本最大の内乱とも云われる壬申の乱が発生すると、関ヶ原町も大きく関わりを持っています。
大海人皇子は野上の地に行宮を設営すると、畿内と東国との連絡を遮断する為に不破の道を封鎖し、この間に美濃の豪族を味方に引き入れ体制を整え、不破郡家付近に軍勢を集結させました。
同年六月二七日条には「天皇、皇后を留めたまひて、不破に入りたまふ、郡家に及る比に」と記され、玉倉部邑と呼ばれていたとされる現在の玉地区付近で両軍が激突し壮絶な戦いが繰り広げられました。
壬申の乱が終結した翌年の天武天皇2年(673)には、当地に不破関を設置し、畿内と東国を分ける軍事的要衝として重要視され、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関と共に古代三関の1つに数えられました。
延暦8年(789)に不破関は一旦、廃止となりましたが、鎌倉時代には通行料を徴収していた事から、関所のような存在として存続していた事が窺えます。
承久3年(1221)に発生した承久の乱が終結すると、功績を挙げた長江秀景が当地に入部し今須城を築城、菩提寺となる妙応寺を開創する等当地の開発に尽力し、以後、歴代長江氏が周辺を支配しました。
一方、南北朝時代は昭慶門院領の国衙領、その後は久我家領となっています。
リメイク版の関ヶ原町の動画
長江氏は鎌倉権五郎景政の孫にあたる義景が相模国長江に入部した際、地名に因み「長江」姓を掲げたとされます。
その後、長江高景の代に美濃守護代富島氏の養子となり美濃国の守護代を担った事から相当の名家だった事が窺えます。
しかし、応永2年(1395)に長江高景は応永の乱で富島氏、京極氏と共に東軍に与した為、西軍に与した斎藤妙椿から侵攻を受け、高景とその子供である将監理、景秀、八郎、景秀の子 元景が悉く討死し、大名家からは没落しています。
応永年間(1394〜1428年)には富島氏が松尾山城を築城、戦国時代に浅井領と織田領の境界線に接していた軍事的要衝だった事から、浅井長政の家臣樋口直房が配されています。
元亀元年(1570)に織田信長が当地まで侵攻すると、竹中半兵衛重治の懐柔により直房は織田方に転じた為、松尾山城には織田家の家臣である不破光治が配されています。
又、町内を縦断する東山道には宿駅となる山中宿と野上宿が整備され、引き続き交通の要衝として多くの人や荷物の往来がありました。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは関ヶ原や山中が東西両軍の主戦場となり多くの尊い血が流れました。
関ヶ原古戦場として徳川家康初陣地、徳川家康最後陣地、石田三成陣地、岡山烽火場、大谷吉隆墓、東首塚、西首塚、開戦地、決戦地が貴重な事から国指定史跡に指定されています。
江戸時代に入ると旗本竹中氏領となり、中山道が開削されると町内には宿場町で江戸日本橋から58番目の関ヶ原宿と59番目の今須宿が開宿しています。
特に関ヶ原宿は中山道と北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として重要視され、江戸時代後期の記録によると関ヶ原宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒、家屋269軒で構成されていた事が記されています。
一方、今須宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒、家屋464軒で構成され、他の中山道の宿場町に比べ問屋場が多く商業的な中核となりました。
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