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神戸町(歴史)概要: 神戸町は律令制下で、美濃国味蜂麻郡に属し、日本書記の天武天皇元年(672)六月二二日条に安八磨郡と記されています。
万葉集巻一一に当地を詠ったと思われる「あぢの住む渚沙の入江の荒磯松我を待つ児らはただひとりのみ」と記されている事から、味蜂間の地名は「味鴨が飛来する入江」が由来しているとも云われています。
又、当地は、古代の官道である東山道の駅家である、不破駅と大野駅を結ぶ経路上にあったと思われ、交通の要衝だったと推定されています。
平安時代初期には安八太夫安次が郡司に就任、平野荘、又は平野庄と呼ばれる比叡山延暦寺の荘園が成立しています。
弘仁8年(817)に比叡山延暦寺を開創し、日本の天台宗の開祖とも云われる伝教大師最澄が巡錫で当地を訪れた際、その説法に感化した安八太夫安次は神護寺善学院を創建し、延暦寺の鎮守社である日吉大社の分霊を勧請し日吉神社を開創したと伝えられています。
その為、町内には伝教大師最澄と所縁がある、日吉神社をはじめ瑠璃光寺や神護寺、密厳寺、性顕寺などが境内を構えています。
美濃国が旱魃が発生した際、安八太夫安次は娘である夜叉姫を嫁にする条件で、小蛇に降雨の祈願をしたところ、突如として恵みの雨が降り出したそうです。
数日後、小蛇が変化した若武者が出現し、夜叉姫を連れ立って杭瀬川の上流にある美越の池に辿り着くと、夜叉姫も龍神に変化し、長く下流の村々の守護神となった事から、美越の池は夜叉ヶ池と呼ばれるようになったと伝えられています。
町内に境内を構えている夜叉堂には安八太夫安次と娘である夜叉姫が祭られ、信仰の対象となっています。
「中右記」の嘉保2年(1095)10月23日条によると平野荘に下向した延暦寺と思われる天台宗の僧侶等が非道を行った為、当時の美濃国司だった源義綱が宣旨を被って悪僧らと合戦しています。
嘉承元年(1106)にも延暦寺の僧侶と思われる山僧の乱行に手を焼いた国主が辞任する事件が発生しています。
日吉神社は周辺地域の鎮守として歴代領主から篤く庇護され、室町時代に斎藤伊豆守利継が造営し、天正13年(1585)に稲葉一徹が修復した三重塔が国指定重要文化財に、寛永7年(1630)に尾張藩主徳川義直が造営した本殿が岐阜県指定文化財に指定されています。
リメイク版の神戸町の動画
又、門前町には多くの人が集まり、物資の集積地としても発展し、戦国時代には稲葉一徹の尽力により毎月、4と7、10の付く日には九斎市が開かれました。
室町時代には美濃国守護職土岐家一族の不破氏が支配し、不破道広により西保北方城が築かれ、居城としています。
三代目不破光治は斎藤家の重臣として安藤守就、氏家直元、稲葉貞通と共に西美濃四人衆に数えらえましたが、斎藤家が衰退すると離反し、織田信長に仕えています。
当地も信長から保護され、永禄4年(1561)に織田軍が安八郡、本巣郡に進軍した際、神戸の市場に制札が発給されています。
永禄10年(1567)には織田信長が越前一乗谷から足利義昭を迎えた際、不破光治がその使者の一人に抜擢され重きを成しています。
その後も、浅井氏や朝倉氏との戦いや越前一向一揆平定に従軍し、功績を挙げた事で天正3年(1575)に越前府中を中心に今立郡と南条郡を与えられ、前田利家と佐々成政と共に府中三人衆に数えられています。
天正10年(1582)の本能寺の変の際には当時の西保北方城の城主だった不破彦五郎は織田信長に随伴し、本能寺に居た為、討死、西保北方城には領主となった稲葉良通の四男稲葉方通が配されています。
方通は羽柴秀吉に従い、九州の島津征伐や、小田原の役で功績を挙げた事で、天保18年(1590)に4千450石で美濃和知城に遷され、代わって、西保北方城には木村勝正が入っています。
一方、和泉周辺は千利休の弟子で、台子七人衆の一人に数えられた木村常陸介重茲が領していたそうで、和泉城を居城としていました。
重茲は豊臣秀吉に従い、天正12年(1584)に発生した小牧長久手の戦いで功績を挙げ、天正13年(1585)に越前府中城12万石が与えられ、当地を離れたと思われます。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、木村勝正は西軍に与し、本戦前の前哨戦で討死したようで、西保北方城も廃城となっています。
江戸時代に入ると尾張藩に属し、藩の保護により主に衣類が取引される六斎市が開催され、西濃地方の一大集積地として発展しました。
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