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八百津町(歴史)概要: 八百津町には複数の縄文時代の遺跡が点在し、当時から豊かな生活が営まれていた事が判ります。
中でも大仙寺が所有する縄文土器は、縄文時代中期に制作された釣手土器で高さ14.6cm、最大幅18.9cm、底部径7.2cm、意匠に富み、保存状態も良く、貴重な事から岐阜県指定文化財に指定されています。
又、大舩権現山が信仰の対象になっていたようで、伊岐津志字立壁の遺跡からは縄文時代の祭祀施設であるメンヒルが確認されています。
八百津町には目立った古墳はありませんが、下屋古墳や東中国古墳、円山古墳などの古墳が確認されており、身分の格差が確立していた事が窺えます。
木曽川を使った運送は早くから行われていたようで、鎌倉時代には錦織網場が開設されていたと見られ、弘安8年(1285)には伊勢神宮造替で利用する木材が近隣の山では賄えなくなった為、美濃山産の木材を利用する事が提案されています。
応永29年(1422)に正続院の造営で利用される木材を搬出する際には、美濃国守護職の土岐持益から美濃国河上関々奉行人宛てに関所の通行証が発給されており、この「河上関」は錦織河上の関の事とされます。
永正年間(1504〜1521年)には錦織村河上網場、筏場に役所があり通関及び使用料が徴収されていた事が記録されています。
鎌倉時代に入ると山田氏が入部したようで、山田大隅守重久が今峰城を築城、承久3年(1221)に発生した承久の乱では後鳥羽上皇に呼応したものの、鎌倉幕府の北条方に破れ討死しています。
山田重久がどの様な人物かは判りませんが、尾張国山田荘を本貫とする幕府の御家人、山田重忠とは「重」の字が被り、重忠が後鳥羽上皇の近侍だった事から一族だったと思われます。
跡を継いだ重成は閉居処分となりましたが、その後、今峰城(丸山城)主に復権しています。
リメイク版の八百津町の動画
南北朝時代には美濃国守護職の土岐頼遠の子供である又太郎氏光が入部し地名に因み「今峰」姓を名乗ったとされます。
氏光は康永元年/興国3年(1342)に頼遠の死去に伴い、土岐家の名跡を継いだ従兄弟の土岐頼康と激しく対立しましたが、粛清されています。
戦国時代には稲葉家領となり、天正18年(1590)に稲葉良通の四男である稲葉方通が当地に配され、和知城を築城、美濃国加茂郡細目村・野上村・和知村・久田見村と上牧野村の内で4千4百50石を領しました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、稲葉家は東軍に与した事で本領が安堵され、大坂の陣にも参陣、元和3年(1617)以降は尾張徳川家付きとなっています。
しかし、延宝4年(1676)、稲葉屋通が嗣子を定める前に死去した事から断絶となり、領地は尾張藩に収公されています。
木材の網場や筏場として、木曽川上流から切り出された木材が集められた事から、尾張藩は寛文5年(1665)には錦織奉行所を設置し、奉行以下役人138名が常駐、木曽川木材運搬の最大の拠点として重要視されました。
又、木曽川舟運の拠点となった黒瀬湊では多くの物資が集められ、定期市が開かれるなど商業町として発展し、問屋や町屋が軒を連ね、大いに賑わったとされます。
さらに、黒瀬湊と苗木城下を結ぶ黒瀬街道の起点として、多くの往来があり、特に黒瀬湊から荷揚げされた物資が街道沿いの村々に運ばれ、逆に、街道沿いの名産が各地に運ばれました。
明治時代に入ると、良質な水が豊富だった事から、明治元年(1868)には山田商店、明治10年(1877)には吉田酒造、明治19年(1886)には花盛酒造が創業しています。
明治時代後期に木曽川の改修や近代交通の整備により木曽川舟運は急速に衰退し、上流にダムが出来た事により終焉を迎えましたが、現在でも往時の町並みが随所に見ることが出来ます。
又、太平洋戦争の最中、迫害を受けていたユダヤ人6千人の命を救った、当時のリトアニア日本領事代理だった杉原千畝の生誕地でもあり、記念館が整備されています。
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