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垂井町(歴史)概要: 垂井町には大滝野遺跡や長尾遺跡、南森下遺跡、小黒見遺跡、朝倉遺跡、北野遺跡、日守遺跡など縄文時代の遺跡が点在し、当時から人々の生活が営まれていた事の傍証となっています。
古墳時代には喪山古墳や忍勝寺山古墳、親ヶ谷古墳、勝宮古墳、栗原古墳(1号・2号)、綾戸古墳など、町内には150基程の古墳が発見されており、一定以上の豪族が割拠していた事が窺えます。
忍勝寺山古墳は5世紀前半に築造されたと推定される帆立貝式円墳で、直径60m、副葬品として鉄鏃や銅鏃、直刀などが確認され、貴重な事から垂井町指定史跡に指定されています。
親ヶ谷古墳は4世紀後半頃に築造されたと推定される前方後円墳で、墳丘長85m以上、高さ6m、2段築成、後円部上段のみ葺石、伝承によると銅鏡14枚、内行花文鏡片が発見されたと伝えられており、被葬者は古墳の規模と副葬品の多さから当地域を治めた首長と推定され、貴重な事から垂井町指定史跡に指定されています。
垂井町は古くは美濃国の政治の中心地だった地域で、大化元年(645)には美濃国府が設置され、現在垂井町府中に境内を構えている安立寺の境内から布目瓦が出土し、伝承などから、美濃国府跡伝承地として貴重な事から垂井町指定史跡に指定されています。
南宮御旅神社付近が政庁跡とされ、周辺からは正殿、西脇殿、東脇殿の3棟の建物跡や朱雀路、硯、墨書土器等が発見され、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
8世紀後半頃には美濃国分尼寺が開創され、境内は国府伝承地と大垣市青野町にある美濃国分寺との中間に位置する垂井町平尾に推定され、建物の基壇や国分寺と同じ文様が入った瓦などが出土し、美濃国分尼寺跡推定地として垂井町指定史跡に指定されています。
8〜9世紀前後は豪族である伊福氏が支配し、天長元年(824)には氏寺である菩提寺を創建し、祖神を祭る伊富岐神社を篤く奉斎しています。
日本略記によると、和銅6年(713)に伊福部君荒當が美濃守笠朝臣麻呂と共に木曽路を開削し、その功績により田二町歩を下賜された事から、この頃に入部したのかも知れません。
垂井町で延喜式神名帳に記載されたのは美濃国一宮の南宮大社、大領神社、伊富岐神社の三社で当時から格式の高い神社として認識されていたようです。
中世に入ると豪族達が割拠し、垂井には長屋景頼が入部、長屋氏屋敷や垂井城を築き、後裔が長く当地を支配しました。
正平8年/文和2年(1353)に後光厳天皇と足利義詮が垂井に避難した際には長屋氏屋敷が仮御所として利用され、その跡地は貴重な事から垂井町指定史跡に指定されています。
リメイク版の垂井町の動画
府中には元弘元年(1331)に松井蔵人直家が後醍醐天皇を探し出した恩賞で鎌倉幕府から当地を与えられ、地名に因み「不破」姓を掲げ歴代不破氏が不破郡一帯を支配しました。
その後、不破氏は美濃国守護職土岐家の従い、不破孫左衛門道広の代で、現在の神戸町西保に遷っています。
一方、長屋氏も天文年間(1532〜1555年)に長屋景興が本拠地を相羽城に遷し、天文16年(1547)に斎藤道三に敗れ、大名家からは没落しています。
不破郡漆原は清和源氏の流れを汲む岩手氏が支配し、室町時代に入ると美濃国守護職の土岐家に従い、周辺6千貫を領しました。
しかし、弘治2年(1556)に岩手信久は長良川合戦で討死、跡を継いだ岩手信冬も永禄元年(1558)に竹中重元に敗れ当地を去ったとされます。
重元の跡を継いだ重治は斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉に従い、特に秀吉の家臣時代は名軍師として知られ、数々の戦功を挙げています。
跡を継いだ竹中重門は慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの本戦で東軍方の黒田長政隊に組み込まれ功績を挙げたものの、当初は西軍に与した関係からか、本領安堵に留まっています。
江戸時代に入り幕府の交替寄合旗本になると、本城だった菩提城を廃して竹中氏陣屋を設けて拠点を遷し、長く当地を支配しました。
江戸時代末期の当主である竹中重固は江戸幕府陸軍奉行、従五位下遠江守に任ぜられ、鳥羽伏見の戦いに参陣、その後も旧幕府軍として箱館戦争まで戦い抜き、敗北後は改易となっています。
江戸時代に入ると中心部は大垣藩に属し、中山道が開削されると当地は中山道と美濃路の分岐点だったことから中山道の57番目の宿場町である垂井宿が開かれています。
江戸時代後期の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、問屋3軒などで構成され、交通の要衝として多くの人や荷物が往来し大いに賑わっています。
現在も街道沿いには伝統的な町屋建築が点在し、当時の雰囲気が感じられます。
リメイク版の垂井宿の動画
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