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恵那市岩村町(歴史)概要: 当地は平安時代に遠山荘に属し、鎌倉時代初頭の文治元年(1185)に、鎌倉幕府の有力御家人加藤景廉が当地の地頭に就任しています。
加藤景廉は伊勢国を本拠地としていましたが、伊豆国に下り、早くから源頼朝に従い、石橋山の戦いや鉢田の戦い、平家追討、奥州合戦などの主要な合戦に従軍し功績を挙げています。
景廉の嫡男である加藤景朝が当地に入部し、本貫地とした事から地名に因み「遠山」姓を掲げ遠山氏の祖となっています。
景朝は居城として岩村城を築城すると、承久年間(1219〜1222年)には城内に八幡神を勧請し、八幡神社を創建、配神として景廉の御霊を祭り、岩村城の鎮守社としています。
一方、遠山荘は古くから近衛家の荘園で、建長5年(1253)10月21日に発給された近衛家所領目録によると、当初は高陽院の荘園だったものの、寛元4年(1246)8月25日に近衛基通が次男近衛道経の正室である武蔵守藤原以頼の娘に分け与えています。
その為、遠山荘の名目上の所有者は近衛家で、遠山家が実質的に支配、運営し年貢の徴収納入を請け負う地頭請所のような形式だったと推定されています。
その後、遠山氏は岩村城を本拠地として長く当地を支配しましたが、庶流が苗木と明智などを拠点とし、「蔭涼軒日録」の長享二年(1488)八月二二日条には「遠山有三魁、第一号苗木、第二号明智、第三号岩村、皆千貫許分限」と記されています。
南北朝時代には南朝方に与し「太平記」の延元2年/建武4年(1337)には美濃霧城遠山三郎が越前金ヶ崎城の戦いに参陣しています。
室町時代には美濃国守護職の土岐家に従い、応仁の乱や長享・延徳の乱などに参戦し功績を挙げています。
当地は信濃国、駿河国、美濃国の国境付近にあった事から軍事的要衝として重要視され、戦国時代には織田、武田、徳川といった大大名の影響を大きく受けました。
武田家の軋轢が強くなり、天文23年(1554)に武田信玄が信濃国の伊那地方を掌握すると、遠山氏は武田家に従うようになっています。
武田家による当地方の保護も始まり、天文24年(1555)には遠山家の菩提寺である大圓寺に対し、信玄が禁制を発布しています。
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一方、織田信長が台頭すると、遠山景任は信長の叔母である、おつやの方を娶り、縁組を結んで関係性を強化しています。
元亀3年(1572)に景任が死去すると織田信長は岩村城を占拠し五男の織田勝長を城主として配しています。
天正元年(1573)に武田家の家臣である秋山虎繁が当地に侵攻すると、実権を握っていた、おつやの方は虎繁の妻になる事で降伏しています。
しかし、天正3年(1575)に織田信忠が当地に侵攻し、岩村城を取り囲み5カ月間にわたる攻防戦の末、助命を条件に虎繁夫妻は開城に応じたものの、反故され極刑となっています。
岩村城は織田家の重臣の河尻秀隆や団忠正が城主となり、岩村城の拡張整備や城下町の町割りなどに尽力しています。
天正10年(1582)に本能寺の変が発生し、織田信長が横死すると、金山城の城主となった森長可が岩村城を接収し、森家の家老である各務元正を配しています。
慶長4年(1599)に森忠政が信濃国川中島に移封になると、代わって田丸直昌が4万石で入封したものの、直昌は慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで西軍に与した為に改易となっています。
江戸時代に入ると松平家乗が2万石で岩村藩を立藩、岩村城の麓に藩主の居館を移し城下町など領内の整備が行われています。
2代乗寿は大坂の陣で功をあげ寛永15年(1638)に浜松藩(静岡県浜松市)に3万6千石で移封となり、代わって伊保藩(愛知県豊田市)から丹羽氏信が2万石で入封します。
元禄15年(1702)、丹羽氏音がお家騒動で越後国の高柳藩に移封になると小諸藩(長野県小諸市)から松平乗紀が新たに2万石で岩村藩主に就任しています。
その後、大給松平家が藩主を歴任し、3代藩主松平乗賢は幕府の奏者番、若年寄、老中などの要職を歴任し、3万石に加増されています。
8代藩主松平乗命は大坂加番や奏者番、陸軍奉行などの要職を歴任したものの、戊辰戦争の際には新政府軍に恭順し明治維新を迎えています。
明治4年(1871)に施行された廃藩置県により岩村藩は廃藩となり、岩村県が立県しましたが、同年に府県統合が行われ岐阜県に編入されています。
現在でも岩村町には当時の城下町の町並みが随所に残り「伝統的建造物群及びその周辺の環境が地域的特色を顕著に示しているもの」との理由から本町を中心にした約14.6haが名勝「恵那市岩村町本通り伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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