|
美濃加茂市(歴史)概要: 美濃加茂市には尾崎遺跡や仲迫間遺跡、牧野小山遺跡、野笹遺跡、針田遺跡、冨田清友遺跡、深渡A地点遺跡など多くの縄文時代の遺跡が存在し、当時から人々が生活し易い環境だった事が窺えます。
中でも北野遺跡は美濃加茂市加茂野町字北野から加茂郡富加町高畑字北野に広がる岐阜県を代表する後期旧石器時代の遺跡で、ナイフ形石器、彫器、掻器及び細石刃、細石核、有舌尖頭器等が出土しています。
美濃加茂市下米田町に位置する西脇稲荷塚古墳は古墳時代前期末から中期に築造された直径27m、高さ4mの大型円墳で、土師器や弥生土器が出土し、以前は周辺の水田に3基の小規模な墳丘があったと云われています。
美濃加茂市草笛町に位置するトドメキ古墳は2基で構成され、1号墳は古墳時代後期に築造された直径18m程度、高さ2mの二段築成の円墳で、南北方向に横穴式石室と推定される埋葬施設があり、貴重な事から美濃加茂市指定史跡に指定されています。
律令制が施行されると開発も進み、蜂屋川流域などには条里の遺構が見られ、矢田廃寺や元薬師寺跡がある事から仏教の布教が広がった事が窺えます。
古代は賀茂郡に属し、美和郷・生部郷・井門郷・小山郷・曰理郷・志麻郷・米田郷と武藝郡揖可郷が美濃加茂市の市域に比定されています。
延喜式神名帳に記載されている神社は縣主神社と中山神社で、古くから格式の高い神社として認識されていたようです。
縣主神社は彦坐王を祭っている神社で、伝承によると、当地を治めた鴨県主が祖である彦坐王の御霊を勧請したと伝えられ、境内周辺には複数の古墳が存在してる事から鴨県主一族が当地を支配し、氏神として奉斎していた可能性があります。
平安時代に入ると各地で荘園が発生し蜂屋荘や揖深荘、米田荘、山上荘などが成立しています。
特に蜂屋荘が中心的な存在で、当初は藤原摂関家が所有し、平安時代末期頃から鎌倉時代初期までは皇室領となっています。
蜂屋荘には美濃守を担った源頼光の7代後裔の山県三郎頼経の子供である頼俊が入部し、地名に因み「蜂屋冠者」を名乗った事から清和源氏頼光流蜂屋氏の祖となっています。
一方、中世に入ると岸家が支配し、美濃守護代斎藤氏に与することで地位が確立します。
リメイク版の美濃加茂市の動画
戦国時代に入り斎藤家が衰退すると、織田家との対立の矢面に立ち当時の当主岸信周は周辺の佐藤忠能や長井道利らと同盟を結び織田家の侵攻を食い止めようとしましたが、忠能の裏切りにより戦線が崩れ、居城である堂洞城と命運を共にしています。
又、佐藤信則は美濃国加茂郡揖深村を本拠地とした土豪で、当初は斎藤道三や斎藤義龍に仕えていたものの、斎藤家の没落と共に織田信長に従い、美濃国内で発生した一揆鎮圧で功績を挙げた事で地位が確立しました。
跡を継いだ佐藤堅忠は信則と同様に織田信長に従い、信長の命により加治田城の佐藤忠能の養子となり、その後は新たに加治田城の城主となった斎藤利治に従っています。
本能寺の変後は金山城主森家に従い、その後は豊臣家の家臣になったものの、秀吉死後は徳川家に転じ、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで東軍に与し功績を挙げています。
堅忠の跡を継いだ佐藤継成は幕府旗本寄合席に列格し現在の岐阜県美濃加茂市伊深町に伊深陣屋を構えています。
美濃加茂市の江戸時代の支配領域は、尾張藩と幕府天領、旗本領が混在していました。
尾張藩は天明2年(1782)に尾張藩太田代官所を設け、慶應4年(1868)まで23人の代官が歴任し美濃国5郡125村を支配しました。
代官所が置かれた太田は中山道の51番目の宿場町でもあり、尾張藩領の加茂、可児地方の行政、経済の中心として発展しました。
太田宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、家屋108軒、中山道の三大難所の1つに数えられた太田の渡しがあった事から多くの旅人が宿場を利用したと伝えられています。
太田宿の本陣は福田家、脇本陣は林家が歴任し、総年寄は福田家、庄屋は福田家と林家、林家の分家の三家が1年交代でその任を担いました。
又、旗本領は伏見家が下古井村:443石、神家が下古井村:11石4斗5升7合、西尾家が今泉村:188石9斗4升、佐藤家が伊深村:1300石、滝川家が加茂野村:7石2斗、則光村:254石2升5合、山元村:226石1斗3升、為岡村:193石4升となってます。
美濃加茂市・歴史・観光・スポットの動画の再生リスト
|