多治見市(歴史)概要: 多治見市には平尾・西坂遺跡や上原一号池遺跡、上山遺跡など縄文時代の遺跡が点在し、当時から人々が生活を営んでいた事が窺えます。
古墳時代には、狐塚古墳や虎渓山一号古墳、虎渓山4号墳、池田1号古墳などがあり、身分が明確になり首長と呼ばれる支配層が存在したようです。
狐塚古墳は7世紀前半頃に築造された円墳で、直径約11m、横穴式石室、岐阜県指定文化財に指定されています。
虎渓山1号古墳は6世紀前半頃に築造された円墳で、直径約16m、高さ約1.6m、2段築成、横穴式石室、奥行約9.3m、副葬品として刀剣、馬具、装身具、土師器などが確認され、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
虎渓山4号古墳は6世紀頃に築造された円墳で、直径約18m、積石塚、多治見市指定史跡に指定されています。
池田1号古墳は6世紀末期頃に築造された円墳で、直径約14m、4〜5回追葬、多治見市指定史跡に指定されています。
奈良時代初期、田只見郷は新羅系の渡来人が住んでいたと思われ、祖神を奉斎する為に新羅神社が開創されています。
新羅神社は格式が高く、平安時代に編纂された美濃国神名帳には「従五位下 田只見明神」と記載され、当地の産土神として信仰を集めました。
又、奈良時代初期には名僧である行基菩薩によって永泉寺が開創、正和2年(1313)には土岐頼氏の招きで夢窓疎石が永保寺の前身となる草庵を設けています。
延喜式神名帳に記載されている式内社は多治見市内にはありませんが、美濃国神名帳に記載された従五位下高田明神は多治見市高田町に鎮座している高田神社とも云われています。
市内の大部分は可児郡、土岐川以南と高田川下流の東部が土岐郡に属し、平安時代末期には可児郡池田郷に伊勢神宮の荘園である池田御厨が成立していたと見られています。
建久三年(1192)八月の伊勢神宮神主請文写には「池田御厨」と記されており、当時の給主は大皇大后宮職で、供祭物は上分八丈絹六疋・紙五〇帖と定められていました。
鎌倉時代後期には土岐家の流れを汲む饗庭氏一門である国長が入部し、地名に因み「多治見」姓を掲げました。
リメイク版の多治見市の動画
多治見国長は一族と共に、後醍醐天皇の討幕運動に加担し正中元年(1324)には京都に入りましたが、計画が露呈した事で六波羅探題から襲撃を受け、奮戦空しく敗北し、一族郎党と共に自害して果てています。
多治見市に残された多治見国長邸跡は岐阜県指定史跡に指定されています。
戦国時代には遠山氏の支配下に入りましたが、その後、武田家の侵攻により、一時、武田領になると一族である若尾元昌が配され、天文年間後期から天正年間初期には根本城が築かれました。
若尾氏は甲斐国巨摩郡若尾村を本貫とした氏族で、当地は武田領と織田領が接する要衝だった事から根本城は防衛拠点となりました。
しかし、武田家が没落すると織田信長に従い、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が横死すると森長可に従っています。
天正12年(1584)に発生した小牧・長久手の戦いの際、跡を継いだ若尾元美は森長可に従軍し参戦したものの討死、残された父親である若尾元昌は帰農しています。
江戸時代に入ると、多治見市内は幕府の天領と尾張藩、旗本の林家や馬場家等が支配しました。
市内には中山道の大井宿と名古屋城の城下町を結ぶ下街道が通過し、池田町には宿場町となる池田宿が開かれています。
江戸時代中期以降になると一般庶民にも行楽嗜好が高まり、伊勢詣でや善光寺詣でが盛んになった事から、最短距離で結ぶ下街道が大いに利用され池田宿も賑わったとされます。
江戸時代末期には幕府の天領が笠原村、多治見村、久尻村、長瀬村、中之郷村、野中村、北村、大針村、下切村。尾張藩領が小木村、三之倉村、廿原村、池田町屋村、中之郷村。旗本林家領が小木村、根本村、大原村。旗本馬場家が小名田村となっています。
又、多治見市は良質の陶土を含む新第三紀層が地表近くあった事から平安中期から後期頃から陶器製造が発達、安土桃山時代には名器を造り出す美濃焼として全国的にも知名度が上り、現在でも日本有数の陶磁器を生産しています。
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