中津川市(歴史)概要: 中津川市は縄文時代の遺跡が多数存在し、中でも中津川市福岡に位置する野尻遺跡は縄文時代早期の押型文土器及び前期の諸磯、北白川両式が出土しています。
又、西日本と東日本両方の土器が混在している事から、当地域の縄文人が広域な活動を行っていた事が判る貴重な史跡で、岐阜県指定史跡に指定されています。
中津川市には数多くの古墳が確認されていますが、特に中津川市山口に位置する山の神古墳は7世紀初頭から中期頃に築造された円墳で、直径約15m、高さ約3m、往時は葺石で覆われていたようで、副葬品として須恵器、土師器、刀子が出土し、貴重な事から中津川市指定史跡に指定されています。
律令制度下で恵那郡六郷(淡気・安岐・絵上・絵下・坂本・竹折)が定められ、官道である東山道と岐蘇山道が開削整備されています。
中津川市内には坂本駅家が設置され、その場所は駒場、千旦林、神坂と諸説あり特定には至っていません。
当地は難所である神坂峠を控えていた事から交通の要衝として重要視され、駅馬も30匹と通常の駅家の3倍が備えられました。
中津川市内に鎮座している延喜式神名帳に式内社として記載された神社は、坂本神社、那珂川神社、恵奈神社の三社で、当時から格式の高い神社として中央からも認識されていたようです。
平安時代に入ると遠山荘と呼ばれる近衛家の荘園が設けられています。
鎌倉時代初期の文治元年(1185)、又は建久6年(1195)に遠山荘は鎌倉幕府の有力御家人である葛藤景廉に与えられ、その後、長男の影朝が地名に因み「遠山姓」を掲げると、長く遠山家が当地を支配しました。
元弘年間(1331〜1334年)に一族である遠山一雲入道と遠山景長父子が高森山に砦を築き、以後、苗木遠山家と呼ばれるようになり、岩村遠山家、明智遠山家と共に、遠山三家に数えられました。
建武年間(1334〜1336年)には遠山景利が広恵寺城を築き本拠地を遷すと、宗良親王を迎える等、南朝方でも一目置かれる存在だった事が窺えます。
版図は凡そ遠山荘の木曽川以北と蘇原荘で、戦国時代には当地が、中山道の木曽路入口にあたる軍事的な要衝だった事から、境界を接した木曽氏や小笠原氏、姉小路氏とは激しく対立しています。
天文年間(1532〜1555年)に遠山正廉が苗木城を築き、本拠地を遷すと、台頭してきた甲斐武田家に属しましたが、一方で織田信長とも縁を結んでいます。
リメイク版:中津川市の動画
その後、完全に織田家に転じた事で、武田家家臣の秋山虎繁と対立する事となり、岩村城の攻防戦で破れると守勢にまわっています。
天正2年(1574)には武田勝頼に攻められ、苗木城をはじめ全ての支城も落城しています。
その後、織田信忠が岩村城を奪還した事で、苗木城も復帰しましたが、天正10年(1582)に発生した本能寺の変で本領を失った金山城主森長可は版図を広げる為、当地まで侵攻しています。
天正11年(1583)に苗木城は落城、遠山友忠、友政父子は徳川家康を頼り浜松城に落ち延びています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで友政は東軍に与し苗木城を奪還、その功績が認められ旧領等1万5百石が安堵され苗木藩を立藩しています。
2代藩主遠山秀友と3代藩主遠山友貞が領内の整備を行った事で苗木藩の基礎が固まったものの享保17年(1732)には幕府に下野村等500石を返上した為、1万石余となっています。
5代藩主遠山友由は大坂加番、12代藩主遠山友禄は若年寄等の要職を歴任した為、藩の財政は慢性的に逼迫し、明治維新を迎えています。
一方、苗木藩領以外の大部分は尾張藩に属し、中山道が開削されると、街道沿いには43番目の宿場町である馬籠宿、44番目の落合宿、45番目の中津川宿が開宿しています。
江戸時代後期の記録によると、馬籠宿では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒、落合宿では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、中津川宿では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒で構成されていました。
江戸時代末期に中津川宿の本陣職を担った、市岡殷政や豪商の間秀矩等の支配層が、平田国学の門人だった事から、住民の多くが勤皇派に好意的で、水戸天狗党が当地を訪れた際には食事の提供や傷の手当を行っています。
又、中津川宿は桂小五郎の潜伏先でもあり、文久2年(1862)には当地で、長州藩主毛利敬親と、桂小五郎が三日間にわたり会議を行い、長州藩が尊皇攘夷派に大きく方向転換したと云われています。
その後も、中津川宿の住民は新政府の東山道鎮撫軍の先導役や継立等を行い、岩倉具貞率いる東山道軍には中津川隊として従軍しています。
現在でも中山道沿いの宿場町には伝統的な町屋が点在し、往時の雰囲気が残されています。
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