中津川宿(中山道)概要: 案内板によると「 中津川宿は江戸から45番目の宿場である。寛政年間(1789〜1800)には、町の長さ10町7間(約1.0km)、家数175軒、人口1230人となり中山道の中でも大きな宿場であった。宿の町筋は、江戸方より淀川町、新町、本町、横町、下町と続き、中心は本町で、ここに本陣、脇本陣(共に問屋兼務)が相向いあい、道の中央には用水が流れていた。本町をはさんで京方筋には旅籠屋、馬宿、茶屋その他物を商う店、職人の家も並び人馬の継立と休憩、宿泊を中心とした町があり、江戸方にかけては商家を主とした町並みがあった。今でも鉤の手に折れ曲がった横町あたりには古い伝統を受継いだ宿場町の面影が残されている。 中津川市教育委員会 」とあります。
中津川宿(岐阜県中津川市)は中山道の宿場町として成立した町で淀川町・新町・本町・横町・下町の5町で形成されていました。物資の集積地として経済的に発展し、多くの豪商を輩出、特に幕末の間秀矩は知られた存在で「丸八」を立て直し中津川宿を代表する店に発展させています。
中津川宿は天保14年(1843)当時は尾張藩領で本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒、家屋228軒あり、本陣は市岡家、脇本陣を森家が務めていました。
安藤広重が木曽街道六十九次を描いた際は通常1つの宿場で1枚しか描きませんでしたが、中津川宿では「晴れの中津川」、「雨の中津川 」の2枚が描かれ中でも「雨の中津川」は世界中で6枚しか見つかっていない幻の1枚となっています。
歴史が感じられる中津川宿の町並み
文久元年(1861)10月29日には皇女和宮が中津川宿を利用し、本陣市岡家で宿泊、行列は50キロに達したとも云われ、本陣では温かいもてなしを受けました。
元治元年(1864)11月27日、水戸藩内外の尊皇攘夷派により結成した水戸天狗党が上洛する途中(越前で捕縛)中津川宿で昼食として利用していますが、当時幕府から追討令が発令されている中、昼食の差し入れだけでなく病人や怪我人の看病などを積極的に行い快く迎え入れています。
これは当時の本陣役だった市岡殷政や宿問屋役だった間秀矩、庄屋役だった肥田九印兵衛通光などが尊皇攘夷に大きな影響を与えた平田篤胤の門人だった為で、同じく尊皇攘夷を掲げた水戸天狗党を同門として扱った為で十八屋では怪我人の看病なども行なわれています。
兵庫の開港問題や条約勅許の際には市岡殷政と間秀矩は上洛して有力公家達に建白書を提出しています。このような事が重なった為、中津川宿は平田門徒の地方の一大拠点として認識され、多くの門人達の交流や書状や書簡が行き交いました。
又、上記の上役達は桂小五郎(木戸孝允)と長州藩主毛利慶親とに密談の段取りを行なった人物としても知られ所謂「中津川会議」で長州藩が大きく尊皇攘夷に傾いた歴史的転換期の舞台にもなっています。
現在でも中津川宿には古い町屋などが点在し元庄屋である肥田家(田丸屋:中津川市指定文化財)住宅は江戸時代中期の建物で当時の中津川宿の様子を伝えています。
中山道の宿場町として賑わった中津川宿の町並み
【中津川会議】−江戸時代末期、本陣職の岡殷政や問屋職の間秀矩など中津川宿の有力者の多くが国学者平田篤胤が提唱した平田国学に感化され、門人となって尊王攘夷運動に参加しました。そのような背景から、文久2年(1862)6月、長州藩士で吉田松陰の教えを受け藩内の尊王攘夷運動の急先鋒だった桂小五郎が中津川宿に密かに入り、長州藩主毛利慶親と謁見する為に身を隠していました(当時の料亭「やけ山」が桂小五郎隠れ家だったとされます)。
当時の長州藩は公武合体派と、尊王攘夷派の2派に分かれ対立関係にあった為、藩主を説得される事で尊王攘夷派を優位にする狙いがありました。
毛利慶親が江戸を出立し中山道を利用し中津川宿に入ると、そこで待ち構えていた桂小五郎と3日間会議(長州藩中津川会議)が行われ、ここで長州藩が大きく尊王攘夷に傾き、やがて倒幕運動へと発展しました。
中山道:美濃路・経路
落合宿−中津川宿−大井宿−大湫宿−細久手宿−御嶽宿−伏見宿−太田宿− 鵜沼宿−加納宿−河渡宿−美江寺宿−赤坂宿−垂井宿−関ヶ原宿−今須宿
中津川宿:上空画像
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