加納宿(御嵩町)概要: 案内板によると「 江戸時代の加納の町は、加納城と武家屋敷・本陣・旅籠や問屋の宿場からなっていた。加納宿は東西約2.3Kmに広がり、中山道の中でも大きな宿場であった。また、南に分かれる名古屋街道は、鮎ずしを将軍家に運んだことにちなんで御鮨街道とよばれる。」とあります。
加納宿は中山道の53番目の宿場町で天保14年(1843)時点では本陣1軒(松波藤佐衛門家)、脇本陣1軒(森与次右衛門家・森孫作家)、旅籠35軒、家屋805軒、人口2728人で、中山道の宿場町の中では本庄宿(埼玉県本庄市) 、高宮宿(滋賀県彦根市) 、熊谷宿(埼玉県熊谷市) 、高崎宿(群馬県高崎市)に次ぐ規模を誇りました。
これは宿場町であると共に、加納藩の藩庁が置かれた加納城の城下町も兼ねていた為で、東西には番所が設けられ出入りも厳重に管理されました。多くの人口を抱え物資の集積場でもあった為、東問屋、西問屋、岐阜問屋が設けられ宿場内では大きな影響力を持つようになりました。
史跡も多く加納城(国指定史跡)や亀姫(徳川家康の長女)の菩提寺である光国寺、藩主奥平家菩提寺である盛徳寺(岐阜市指定史跡)などがあり本陣は松波家では文久元年(1861)には皇女和宮が宿泊で利用し「 遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりけり 」の歌を残しています。
中山道:美濃路・経路
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