岐阜市: 加納城

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概要・歴史・観光・見所
加納城(岐阜市)概要: 加納城の前身であう沓井城は文安2年(1445)に斎藤利永によって築城されたのが始まりとされます。長く斎藤氏の居城でしたが天文7年(1538)時には既に廃城となっていて岐阜城(稲葉山城)が当地域の中心となりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、当時の岐阜城の城主織田秀信(三法師、本来ならば織田信長の嫡孫で後継者として天下を采配する立場の人物でしたが、その約束は豊臣秀吉が反故し一大名へ成り下げられ、信長縁の岐阜城に移された。)は西軍に与した為、東国に与し豊臣家を見限り東軍に与した旧豊臣家家臣達から攻められ落城、慶長6年(1601)には廃城となりました。しかし、岐阜の地は交通の要衝で豊臣家の大坂城を押える上でも軍事的にも重要な土地だった事から新たな城が望まれ慶長7年(1602)に徳川家康が直接縄張りを行い、本多忠勝が総奉行として近隣の大名を呼び出し天下普請として加納城を築城しています。加納城は2重の堀と荒田川、清水川に囲われた平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、厩曲輪、大藪曲輪の5つの郭があり、石垣や建材は廃城となった岐阜城から運ばれたとされます。中でも岐阜城の天守閣が移築され加納城の御三階櫓として利用されたと伝えられ絵図面で詳細に描かれています。

初代城主には家康の長女亀姫の婿である奥平信昌が配され10万石で加納藩を立藩し、以後、加納城には藩庁、藩主居館が置かれ藩内の中心施設として重要視されました。寛永9年(1632)、3代奥平忠隆は嗣子が無く死去した為、奥平家は断絶となり、大久保忠職が5万石で入封、寛永16年(1639)に明石藩に移封になると松平光重が7万石で入封します。元徳元年(1711)に3代松平光煕が淀藩に移封になると安藤信友が6万5千石で入封、3代安藤信成が平藩に移封になると永井直陳が3万2千石で入封、永井氏が6代藩主を世襲し明治維新を迎えています。明治5年(1872)の廃城令を受けて加納城は廃城となり、多くの施設は破却、払い下げとなり、跡地は県庁や岐阜県師範学校、加納尋常小学校、陸軍第51航空師団司令部、自衛隊の駐屯地などに利用されました。加納城の跡地には城郭建築は残っていないものの本丸の石垣や土塁の遺構は良く残され現在は公園として整備され、大変貴重な事から昭和58年(1983)に国指定史跡に指定されました。

【城下町:加納宿】−加納宿岐阜県岐阜市)は中山道の宿場町であると同時の加納城の城下町でもあった為、周辺の中では最大の消費地となり中山道の中では本庄宿(埼玉県本庄市) 、高宮宿(滋賀県彦根市) 、熊谷宿(埼玉県熊谷市) 、高崎宿(群馬県高崎市)に次ぎ大きな宿場町となりました。本陣は松波藤佐衛門家が代々歴任し、文久元年(1861)の仁孝天皇第8皇女和宮親子内親王が江戸の14代将軍徳川家茂の下に降嫁の際には宿泊に利用しています。歴史ある神社仏閣も多く加納藩主だった奥平家縁の光国寺(亀姫、2代藩主奥平忠政、3代藩主奥平忠隆の菩提寺)や香林山盛徳寺(奥平信昌と徳川家康の長女亀姫の菩提寺:奥平信昌夫妻の墓は岐阜市指定史跡)、歴史ある善徳寺専福寺などが点在し、城下町の特徴として東西に番所を設置されていました。明治維新後に岐阜駅が敷設されると駅前方向に開発が進み中心も移され加納町役場庁舎などが建てられましたが次第に衰微していったようです。現在の加納宿は史跡が数多く点在しているものの、街道沿いに建ち並んでいたと思われる町屋などは住宅街に埋没している印象を受け、加納城から見ると北西方向に設けられた武家屋敷も同様に住宅街となっています。

加納城:写真

加納城
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