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岐阜市(歴史)概要: 岐阜市は早くから人々が住み着き、御望遺跡では縄文時代前期後葉から末葉の竪穴住居8軒、土坑24基、集石機構18基等が発見され、さらに縄文時代中期紅葉の竪穴住居2軒、土坑3基が確認されています。
弥生時代には上記の御望遺跡から竪穴住居1軒が、岩田東A遺跡からは弥生時代中期後葉と後期初頭の方形周溝墓と弥生式土器が発見されています。
古墳時代には琴塚古墳をはじめ鎧塚古墳や、岩崎1号墳、日野1号墳、石谷1号墳、智照院古墳、西山4号墳、上城田寺第4古墳群等が築造されています。
中でも琴塚古墳は5世紀頃に築造された前方後円墳で、全長115m、後円部径69m、後円部高さ10.5m、前方部幅74.2m、前方部高さ7.5m、三段築成、葺石、出土品として埴輪、勾玉、銅鏡、石槍、鏃などが発見されています。
琴塚古墳の被葬者は判りませんが、景行天皇の后とされる五十琴姫命とも云われ、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
飛鳥時代から奈良時代初期にかけては須恵器の一大生産地だったようで、老洞・朝倉須恵器窯跡には古代窯が7基以上確認されています。
当地で生産され、美濃国と刻印された陶器は、平城京や藤原京だけでなく美濃国分寺や、伊勢斎宮跡、愛知県、大阪府、長野県でも発見されています。
老洞・朝倉須恵器窯跡は貴重な事から国指定史跡に指定されています。
古墳時代が終焉すると各豪族は氏寺を造立するようになり、岐阜市内には厚見寺跡、大宝廃寺、鍵屋廃寺、長良廃寺など古代寺院の跡地が複数見られます。
厚見寺跡は金華山南麓に白鳳時代後半頃創建されたと推定される古代寺院で、跡地からは「厚見寺」と記した文字瓦をはじめ、花鳥の陽刻文の瓦が出土、さらに、瑞龍寺境内には塔心礎が現存し、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
奈良時代以降は仏教の布教も顕著となり、天平18年(746)に聖武天皇の勅願で、行基菩薩が開創したと伝わる護国之寺には奈良時代に制作された仏鉢である金銅獅子唐草文鉢を所有しており貴重な事から国宝に指定されています。
美江寺や乙津寺、真長寺など奈良時代から平安時代にかけて次々と寺院が開創され、多くのの文化財を所有しています。
一方、延喜式神名帳に式内社として記載されるような方県津神社、若江神社、比奈守神社、茜部神社、物部神社、伊波乃西神社が開創しています。
中央との繋がりも益々浸透し、茜部荘や平田荘、市橋荘、鵜飼荘、芥見荘など天皇家や有力貴族、有力社寺の荘園が設けられ、その荘官が在地を管理しました。
鎌倉時代に入ると、上記の荘官や地頭などが台頭するようになり、中でも美濃源氏である土岐氏の勢力が顕著となり、南北朝時代には美濃国守護職に就任しています。
室町時代の美濃国守護職だった土岐康行は、室町幕府3代将軍足利義満から冷遇された事から挙兵を余儀なくされ、康応元年(1389)から明徳元年(1390)にかけて土岐康行の乱が発生しています。
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乱が鎮圧されると康行は排斥され、一族で、義満に従った土岐頼世が宗主家を継いだものの、大きく権益が削がれています。
頼世の跡を継いだ土岐頼益は、多くの軍功を挙げた事で、評定衆に列し、侍所別当として「幕府七頭」に数えられ、室町幕府の重鎮として復権しました。
しかし、父親の頼世は元々土岐家の庶流だった事から、頼益に従った一族や譜代の家臣が少なく、外様の富島氏と斎藤氏を守護代に重用するようになっています。
さらに、時代が下ると、守護代だった斎藤家が台頭するようになり、特に応仁元年(1467)に発生した応仁の乱では西軍に与した土岐成頼の後ろ盾となった斎藤妙椿が、東軍に与した富島氏を駆逐した事で、地位が確立しています。
戦国時代には斎藤道三が下克上を果たし、美濃国を掌握、稲葉山城を拠点として城下町を整備発展させ、名実共に美濃国の中心地となりました。
その後、家族間の対立が顕著となり、弘治2年(1556)、道三が嫡子である義龍と長良川の戦いで破れると急速に衰退し、尾張の織田信長の美濃国侵攻を許しています。
永禄10年(1576)龍興の代に織田信長に敗れると龍興は伊勢長島へ落ち延びた為、美濃国は織田領となっています。
信長は本拠地を小牧山城から稲葉山城に遷し、地名を稲葉から岐阜に改めると、天正4年(1576)に安土城に移るまで、稲葉山城を改めた岐阜城を本城として天下統一を推し進めています。
天正10年(1582)に発生した本能寺の変で信長が死去すると、岐阜城には織田信孝、天下を取った豊臣秀吉の政権下では、当地が軍事的要衝だった事から有力家臣を配し、天正16年(1588)からは信長の孫に当たる織田秀信が入封しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで秀信は西軍に与した為、東軍の錚々樽たる諸将から攻撃を受け、岐阜城は落城、秀信も降伏を受け入れています。
結局、秀信は高野山に流された後に自刃した事から、事実上織田家宗家は断絶しています。
江戸時代に入ると、岐阜城は廃城となり、代わって加納城が築城、徳川家康の長女である亀姫の婿、奥平信昌が10万石で入封し加納藩が立藩しています。
加納藩の藩主は大久保家7万石、松平(戸田)家7万石、安藤家6万5千石、永井家3万2千石と譜代大名が歴任し、一方、岐阜町などその他の領地は天領を経て尾張藩領に組み込まれています。
藩庁が置かれた加納城の城下町は中山道の53番目の宿場町で、熱田道(御鮨街道)との分岐点でもあった為、宿場内には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒、馬50匹が備えられ、中山道の宿場町の中でも有数な規模を誇り大いに賑わったとされます。
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