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養老町(歴史)概要: 養老町は旧石器時代の遺物が発見される一方で、縄文時代の目立った遺跡が少なく、氷河期が終わった事により海面が上昇し、町内の平地部分が水没していたと思われます。
弥生時代になると、人々の生活の営みが活発となり、古墳時代には数多くの古墳が築かれています。
特に象鼻山古墳群は2世紀中頃から7世紀初期頃に築造された上円下方檀1基、前方後方墳1基、方墳34基、円墳33基、不明1基、合計70基から構成された県内でも有数の古墳集中地帯で、貴重な事から養老町指定史跡に指定されています。
養老町で延喜式神名帳に式内社として記載された神社は、多伎神社、御井神社、久久美雄彦神社の三社で、中央からも格式の高い神社として認識されていたようです。
特に多伎神社は、古代、当地を支配した物部多芸氏が祖神を祭ったとされる神社で、美濃国三之宮に格付けられ、境内にある塚は多芸氏の墳墓とも云われています。
多岐神社は天正5年(1577)に織田信長により社領が没収されるまでは多くの別当寺院を擁する大社として周辺に大きな影響力を持ちました。
多芸氏は美濃国多芸郡物部郷を領した物部氏の部民である物部の伴造とされ、宝亀8年(777)に国足を含む一族2名が多芸連から物部多芸宿禰に改姓しています。
霊亀3年(717)に元正天皇が美濃国巡幸の際、多度山の美泉を見て、年号を「養老」に改元し、美濃国司と当嗜郡の郡司等に官位一階昇進させ、当嗜郡の次の年の調庸を免除しています。
養老町の名称の由来は霊亀3年(717)、元正天皇が行幸の際、この地を訪れ多度山の美泉を飲んだところ、たちまち病が癒えた為、「美泉は以て老を養うべし」として年号を養老と改めたと伝えられています。
奈良時代に入ると、養老山地から南宮山にかけて、次々と山岳寺院が開創され、別所寺、竜泉寺、光堂寺、柏尾寺、養老寺、光明寺、藤内寺は「多芸七坊」と呼ばれました。
特に天平宝字年間(757〜765年)に開創したと伝わる柏尾山柏尾寺は最盛期には境内に七堂伽藍が整備され二十四坊を擁した大寺院でしたが、永禄5年(1562)に織田方の兵火により全山焼失し廃寺になったとされます。
柏尾寺の境内は現在の柏尾神明神社の境内と重なり、そこからは金堂や多宝塔と思われる土檀や礎石、発掘された夥しい石仏などが残され、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
リメイク版の養老町の動画
養老寺は孝子源丞内が開創したと伝わる寺院で、伝承によると元正天皇の御代に、樵を生業とする源丞内が眼病を患い年老いた父親の為、毎日夜遅くまで働き、僅かな稼ぎで好きな酒を買って飲ませていました。
ある夜、誤って山中に迷い込むと、高貴な香りが立ち込めた為、不思議と思い香の源泉を探し当てると、泉から今迄飲んだ事の無いような芳醇な香をする美酒が懇々湧き出ていました。
源丞内は早速、その酒を持ち帰り父親に飲ませると、不思議な事に父親は若返ったように元気になったそうです。
この泉が上記の元正天皇が多度山で飲んだ美泉とも云われ、この逸話を聞いた元正天皇は感銘を受け源丞内を美濃守に任じたと伝えられています。
平安時代になると多岐荘と呼ばれる荘園が成立し、当初は貞観寺領でしたが、鎌倉時代は幕府と纐纈盛安の半領統治となり、その後は八条院や後宇多上皇等の荘園となっています。
室町時代に入ると、土岐氏や明智氏、佐々木氏、島田氏等が地頭として台頭し、15世紀末に斎藤氏が地頭になった頃に接収されています。
一方、土岐氏、又は小笠原氏の庶流とされる丸毛氏が応安年間(1368〜1374年)以降、大塚城を拠点として長く当地を支配しました。
戦国時代の当主である丸毛光兼は斎藤義龍と斎藤龍興に与しますが、斎藤氏が没落すると、織田信長に仕え、天正14年(1586)に牧田川の氾濫によって大塚城が大破すると福束城に本拠地を遷しています。
江戸時代に入ると天領や大垣藩領、高須藩、旗本領となっています。
又、濃州三湊(鳥江、栗笠、船附)と朝妻湊(滋賀県米原市)を結ぶ九里半(38キロ)街道が開削されると、高田町(高田・島田・下高田)は宿場町的な存在として、街道筋には多くの町屋が軒を連ねました。
明治維新直後は、新政府の不手際から押越の八幡神社の境内に300から500人の住民が集まり、高田騒動が勃発、高田町の豪商等を襲撃しましたが、大垣から派遣された検行隊によって鎮圧されています。
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