瑞龍寺(岐阜市)概要: 瑞龍寺は岐阜県岐阜市寺町に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。 瑞龍寺の創建は室町時代の応仁2年(1468)、美濃守護代の斎藤妙椿が、同守護職である土岐成頼の菩提所として悟渓宗頓国師を招いて開山したのが始まりと伝えられています(元々は飛鳥時代に創建された中林寺、厚見寺などの天台宗寺院が存在、衰退したものを再興し寺号を改称したのが瑞龍寺とも)。以来、瑞龍寺は国主土岐家の菩提寺として寺運が隆盛し、境内には七堂伽藍が建ち並び、後花園天皇から勅額、土御門天皇から綸旨を賜わり美濃国における東海派禅門の中心道場として大きな影響力を持ちました。
永禄10年(1567)、織田信長が斎藤義龍の居城である岐阜城(当時は稲葉山城)に侵攻(稲葉山城の戦い)、斎藤家は家臣の裏切りなどで敗退し岐阜城は落城し、瑞龍寺もその兵火により焼失しています。
その後、再興されましたが、慶長5年(1600)の関が原の戦いでは岐阜城の城主織田秀信(幼名・三法師)が西軍に与した為、東軍方の福島正則や池田輝政らに攻められて岐阜城は落城(岐阜城の戦い)、この兵火で瑞龍寺は再び焼失し、悟渓国師の弟子達が輪住し再度再建を果たしています。
江戸時代中期の延亨4年(1747)、輪住制の廃止と共に瑞龍寺が衰退し数十年の間無住となったものの江戸時代後期の文化3年(1806)に隠山禅師が再興しています。瑞龍寺は古くから神仏習合し橿森神社(岐阜県岐阜市若宮町鎮座)の別当寺院(神宮寺)として祭祀を司ってきましたが、明治時代の神仏分離令により分離しています。
現在でも雲龍院、鶴棲院、臥雲院。左に、天澤院、開善院、雲龍院の6つの塔頭を擁する大寺で、寺宝である絹本著色土岐成頼像と絹本著色悟渓宗頓像が平成12年(2000)に岐阜市指定重要文化財に、境内に設けられた厚見寺跡と土岐成頼墓、悟渓国師墓が岐阜県指定史跡に指定されています。山号:金寶山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:薬師如来。
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