岐阜市: 円徳寺

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概要・歴史・観光・見所
円徳寺(岐阜市)概要: 円徳寺は岐阜県岐阜市神田町に境内を構えている浄土真宗本願寺派の寺院です。円徳寺の創建は平安時代末期の寿永2年(1183)、比叡山(滋賀県大津市坂本)の寂円が一宇を設け法泉寺と称してのが始まりと伝えられています。2世寂世が親鸞聖人に帰依し浄土真宗に改宗、寺号も常泉坊に改称しています。天文16年(1547)、織田信秀(信長の父)が斎藤道三に大敗、5000人の戦死者を出し当時の常泉坊境内に死者を埋葬した為に織田塚と称されました。永禄7年(1564)、織田信長が稲葉城(岐阜城)の城主となると城下町の活性化対策が行われ、その基になったとされる「楽市楽座」の許可が新たに寺地が寄進された円徳寺の門前町に発布されました。現在知られている「楽市楽座」の禁制(国指定重要文化財)が円徳寺のものが最古である事から「楽市楽座」発祥地と言われています(楽市楽座の記録的初見は天文18年:1549年、六角定頼が居城である観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)の城下町石寺に発布したとされます。)

永禄年間(1558〜1570年)に現在地に移転し安永5年(1776)に織田塚も現在地に改葬したと伝えられています。慶長5年(1600)に行われた関ヶ原の戦いでは、天正20年(1592)以来、岐阜城13万石の城主になっていた織田秀信(織田信長の嫡孫、織田信忠の嫡男)が石田三成の要請に応えて西軍に与した為、豊臣家を見限った池田輝政や福島正則らに侵攻を受け岐阜城は落城、秀信は切腹しようとしましたが輝政の説得により円徳寺で剃髪し高野山に送られました。しかし、高野山側は織田信長の紀州征伐の際に高野聖数百人を安土において処刑した事を恨みを持つものが多く入山を拒否、その後、入山が許されたものの迫害もあり江戸時代初期には下山を余儀なくされたそうです。秀信が死去した観音寺には位牌が安置され、大正時代には円徳寺の住職により秀信の事跡を綴った石碑を建立されています。宗派:浄土真宗本願寺派。本尊:阿弥陀如来。

円徳寺の寺宝である楽市楽座制札附織田信長百姓帰住制札は織田信長が岐阜城の城下町発展の為に円徳寺に対して発給したものが中心で、「永禄十年十月定織田信長より加納楽市場宛」、「永禄十一年九月定織田信長より加納宛」、「天正十一年六月定池田元助より加納宛」、「天正十二年七月定池田照政三左衛門尉より加納場宛」の4枚(何れも、桧材、縦約38cm、横約35cm、厚さ1.2cm)が平成5年(1993)に国指定重要文化財に指定されています。その他にも円徳寺が所有する織田信長が永禄7年(1564)に寄進したと伝わる梵鐘、銀箔押烏帽子形兜、本願寺顕如消息(書跡)、安永5年(1776)に改葬されたと伝わる伝織田塚改葬地が岐阜市指定重要文化財に指定されています。円徳寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行5間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。

円徳寺:写真

円徳寺山門から見た境内
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円徳寺境内から見上げた本堂正面 円徳寺鐘楼に吊り下げられた織田信長が寄進した梵鐘 円徳寺境内一角に設けられた伝:織田塚改葬跡 円徳寺庭園


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