崇福寺(岐阜市)概要: 神護山崇福寺は岐阜県岐阜市長良福光に 境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。崇福寺の創建は明徳元年(1390)、土岐満康が竜潭宗濬(太清宗渭の高弟)を招き、その師弟である太白真玄が開山したのが始まりとされます。その後衰退しましたが永正8年(1511)に斉藤利匡が再興、永正14年(1517)には独秀乾才(悟渓宗頓の法嗣)を招いて中興開山し寺号も大寿山崇福寺から神護山崇福弘済禅寺に改称し臨済宗妙心寺派に転派しています(もう一説は文明元年:1469年に土岐成頼と斎藤長弘が再興して明応2年:1493年に独秀乾才を招いて中興開山したとされます)。
その後も崇福寺から数多くの名僧を輩出するなど寺運も隆盛し、永禄10年(1567)に織田信長が稲葉城(後の岐阜城)に入ると織田家菩提寺として篤く庇護されます。天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長、信忠が自刃すると崇福寺の境内に廟所が設けられ信長の側室であるお鍋方が岐阜城から両氏の遺品を送り届け納められています。
慶長5年(1600)の関が原の戦いでは東軍に攻められ岐阜城に立て籠もる織田秀信の家臣達が天守閣で自刃、戦後、血の付いた床板を譲り受け本堂の天井材として利用した事から崇福寺の血天井との別称があります。江戸時代に入ると3代将軍徳川家光の乳母春日の局の外祖父、稲葉一鉄が幼少時に崇福寺で小僧として修行していた事や春日局と慶甫和尚(7世)が姻戚関係だった事などから徳川家の庇護となり寺領32石が安堵され朱印状が発給されています。
その後、有栖川宮家の祈願所に指定されると有栖川宮家からも庇護され縁の品々が崇福寺に奉納されています。美濃西国三十三観音霊場第14番札所。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:延命地蔵菩薩、聖観世音菩薩。
崇福寺の文化財
・ 織田信長・信忠廟所−岐阜市指定史跡
・ 独秀和尚像(画像)−国指定重要美術品
・ 斎藤利匡像(画像)−国指定重要美術品
・ 非情成仏絵巻(2巻)−室町時代−岐阜市指定文化財
・ 絹本著色涅槃図-室町時代-176.1×139.3p-岐阜市指定文化財
崇福寺:上空画像
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