大井宿(恵那市)概要: 大井宿は中山道の宿場町で、江戸に日本橋から数えて46番目にあります。天保14年(1843)当時は尾張藩領で本陣1軒(林家)、脇本陣1軒(高木家)、旅籠41軒(大4軒、中33軒、小4軒)、家屋110軒、上問屋、下問屋がありました。問屋は宿役人でもあり、大井宿では幕府の命により人足50人、馬50頭の常備が義務付けられ大きな負担となっていました。
特に負担が逼迫すると大井宿の助郷村として定められた東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村などが協力してそれらを賄いました。
文久元年(1861)に皇女和宮が下向する際、岩村藩の代官吉田泰蔵は大湫宿の助郷であるはずの野井村に大井宿の人足として30人の貸し出しに応じるように命じた事から熊崎新三郎などの反発や幕府へ訴状が提出されるなどの騒動となり代官は罷免、罰金として25両が野井村に支払われています。
大井宿は横町・本町・竪町・茶屋町・橋場の5つ町で構成され、それぞれの町は枡形によって区切られ合計6箇所の枡形が存在し現在でもその名残を随所に見ることが出来ます。
大井宿は十三峠という中山道の難所を控え、名古屋城(愛知県名古屋市)に続く下街道の分岐点でもあったことから、中山道を利用して熱田神宮や伊勢神宮を向かう際には最短距離で結んだ為、参拝者や旅人が数多く利用し宿場も繁栄しました。
現在も庄屋古屋家、庄屋古山家、林家住宅(大井宿役人宅)、天皇行在所(旧:伊藤家住宅・現:岩井邸)、本陣表門(昭和22年:1947年の火災で主屋などが焼失。敷地一帯が岐阜県指定史跡)などの古い建物が残り、往時の繁栄が窺えます。
【 古屋家住宅 】−古屋家は大井宿に屋敷を構え豪商だった家柄で、江戸時代後期の天保元年(1830)から20年間程度、村役人である地方三役一つ庄屋職を担いました。庄屋は郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長である事から相当な実力者だった事が窺え、邸宅内には身分が高い家しか認められない、表門や式台付玄関、上段の間などが備わっていました。
又、古屋家は岩村藩の家老である黒岩家と関係が深かったとされ、裏門である長屋門は明治時代に入り岩村城が廃城になった際、城門だったものを移築したものと伝わっており、数少ない岩村城の遺構として貴重な存在です。
【 旧古山家住宅 】−古山家は屋号「菱屋」を掲げ大井宿を代表する豪商だった家柄で、江戸時代中期の享保年間(1716〜1735年)から江戸時代末期まで約150年間程度、村役人である地方三役一つ庄屋職を担いました。庄屋は郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長である事から相当な実力者だった事が窺え、書院付の奥座敷や茶屋座敷など格式の高い部屋を有していました。
江戸時代の豪商建築の流れを汲む大型町屋建築の遺構として貴重事から恵那市指定文化財に指定されています。現在は「中山道ひしや資料館」として整備され、当家に伝わる古文書や大井宿関係の資料が展示されています。
【 林家住宅 】−林家は大井宿の本陣職を歴任した林家の分家筋にあたる家柄で、文化2年(1808)頃に独立しその後は大井宿の問屋職などの宿役人を歴任しました。問屋は隣接する宿場町までの物資の運搬を取り次ぐ重要な役職だった事から、実力者が任命される例が多く林家の繁栄ぶりが窺えます。
林家は問屋職を務める一方で広大な屋敷を利用した旅籠も経営し宿泊室が14室あるなど大井宿を代表する大型旅籠としても知られていました。現在でも当時の姿をよく留めており大井宿の町並みに大きく寄与しています。
中山道:美濃路・経路
落合宿−中津川宿−大井宿−大湫宿−細久手宿−御嶽宿−伏見宿−太田宿− 鵜沼宿−加納宿−河渡宿−美江寺宿−赤坂宿−垂井宿−関ヶ原宿−今須宿
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