今須宿(関ヶ原町)概要: 今須宿は南北朝時代の正平15年(1360)に長江重景が開基となり高僧として知られた峨山禅師が創建した妙応寺の門前町として成立した町です。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が近江に進軍した際に、後に今須宿の本陣を担った伊藤家の邸宅で休憩をとったとされ、その時座った石が残されています(現在は青坂神社の境内にあります)。
江戸時代に入り中山道が開削されると改めて宿場町として整備され、美濃国と近江国との国堺で、難所である今須峠を控えていた事から美濃路でが唯一の脇本陣が2軒、全国的にも珍しい問屋が7軒ありました。
一方、宿泊施設である旅籠は江戸時代後期で13軒と控えめで、商いに重きを置いた町だったと思われます。本陣は代々伊藤家が歴任し、文化6年(1809)には伊能忠敬による第7次測量の際には伊東五郎三郎家に小休を行い「此本陣旧家にて十五代に及と いう。八代以前慶長五年関ヶ原 役、東照神宮御成の由、神君の 御踏石泰平厳の額あり。」と記載されています。
明治2年(1869)には凶作や参勤交代廃止などの混乱などにより、農民が本陣や庄屋、問屋を襲撃し、大垣藩(藩庁:大垣城)が鎮圧するという所謂「今須騒動」が発生し、これを機に今須宿は急速に衰退したとされます(山崎家には今須騒動により受けた傷が残されているそうです)。
今須宿の中心的な役割を担った本陣(伊藤家)跡
今須宿は中山道の宿場町で江戸日本橋から数えて59番目にあたります。天保14年(1843)当時は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒、家屋464軒あり、本陣は伊藤家、脇本陣を河内家が務めていました。
妙応寺(正平15年:1360年開山。今須領主長江家菩提寺)の門前町、物資の集積場として繁栄し中山道美濃路の宿場町の中では人口は加納宿に次ぐ多さで、宿場の規模は加納宿、関ヶ原宿に次ぐ大きさ、問屋場7軒、脇本陣2軒は唯一でした。
宿場の中央付近に建立されている「永代常夜灯」は文化5年(1808)に京都の問屋河内屋が今須宿で荷物を無くし、金比羅神に祈願すると見つかった事から御礼として建立したものです。現在の今須宿には中山道唯一の問屋場が残されているなど古い町屋が点在し当時の雰囲気が残されています。
歴史が感じられる古い街並みが残る今須宿
【 山崎家住宅 】−山崎家住宅は中山道の宿場町である今須宿(岐阜県関ケ原町)に位置し、案内板によると「−問屋場− 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時7軒もあって全国的にも珍しいことでした。美濃16宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。縁起物の永楽通宝の軒丸瓦た、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。 関ケ原町」とあります。
現在の山崎家住宅の主屋は江戸時代後期の文政3年(1820)に建築された建物で、木造2階建、切妻、桟瓦葺(煙り出し:桟瓦葺・下屋庇:桟瓦葺)、平入、桁行8間、1階は下屋庇、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、1階腰壁は下見板張り縦押縁押え、側面が大壁造り白漆喰仕上げ、敷地間口が広く、向かって主屋右側には庭園に直接入れる表門が設けられ格式の高さを見る事が出来ます。
中山道:美濃路・経路
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