大湫宿(恵那市)概要: 大湫宿は中山道の宿場町として成立した町で、案内板によると「 海抜510mの高地に、江戸から47番目の宿として、慶長9年(1604)に新たに設けられた。東の大井宿へが3里半、西の細久手宿には1里半と、美濃16宿の中で最も高く、それだけに人馬ともに険しい山坂が続く難所に開かれた宿でした。東に枡形を設けた宿の中心には、今も神明神社の大杉がそびえ、古い町並みがよく残っています。脇本陣の保々家(江戸中期)、旅籠の三浦家(江戸末)、問屋の丸森森川家(江戸末)、森新森川家(明治)の4棟は、建造物として国の登録有形文化財に登録されています。 瑞浪市 」とあります。
大湫宿は江戸時代初頭に幕府により開削された中山道の宿場町として町割りされた町で、天保14年(1843)当時は尾張藩領として番所が設けられ、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒、家屋66軒、本陣は保々家、脇本陣を保々家(分家)が務めていました。宿場の長さは3町6間(約340m)で、北町、白山町、中町、神明町、西町に別れ、本陣は白山町、問屋と脇本陣は中町に設置されていました。
山間部に開かれた宿場だった事から周囲は山に囲われ、江戸(東)方向には「十三峠」、京(西)方向には「琵琶峠(全長730m:現存する石畳として日本一)」が控え、宿泊や休息で利用する旅人も多かったとされます。
又、大湫宿では火事が多かった事でも知られ大きな被害を出したものとしては元禄14年(1701)に54軒焼失、正徳5年(1715)に50軒焼失、文政7年(1824)に32軒焼失、文政9年(1826)に57軒に焼失しています。元禄14年(1701)の大火の後には「濃州土岐郡大湫宿火事注進書」が作成され幕府役人や尾張藩役人などに提出、その内の宿場の控えが瑞浪市指定文化財に指定されています。
宿場には6箇所の清水井戸の他に用水池が設けられ防火対策を施した町屋建築も現存しています。町並みも山間部だった事から大幅な近代化が成されず、結果的に伝統的な建物が数多く残されています。
大湫宿は江戸時代末期の文久元年(1861)に朝廷と幕府が一体となり国難にあたるという「公武合体」政策を推し進める為に14代将軍徳川家茂へ御降嫁となった仁孝天皇第8皇女和宮が本陣に宿泊したことでも知られています。和宮の御降嫁の行列は、2万8千人と馬820頭に及んだ事から到底1日で宿泊等を行う事が出来ず4日間に分けて行われたとされます。
大湫宿の本陣、脇本陣を担った保々家(脇本陣家は分家筋)は元々は土豪だった家柄で、関ケ原の戦いや大坂の陣にも参陣し保々市左衛門宋昌の代に寒村だった大湫集落を宿駅にまで発展させ、宿場外れには菩提寺となる宗昌寺を創建、大湫宿の基礎を固めました。保々家は尾張藩からは300石程度の所領が安堵され、本陣職だけでなく、庄屋や問屋などの宿場の上役を歴任し宿場内では大きな権力がありました。
リメイク版の大湫宿の動画
【 大湫宿の見所 】-大湫宿にある町屋建築の多くは木造2階建(江戸時代に建てられた建物は軒が低い、明治時代以降は軒高の規制が廃止された)、切妻、桟瓦葺、平入、火事が多かった事から袖ウダツや袖壁などの防火対策が見られます。宿場町の中央付近に鎮座する神明神社の境内には推定樹齢1300年、樹高60m、目通り幹周6.5mの大杉(御神木)で岐阜県指定天然記念物に指定されています。
この大杉は古くから大湫宿の名所の1つだったようで太田南畝(江戸時代中期を代表する文人・狂歌師、幕府官僚)が随筆した「壬戌紀行(享和2年:1802年、太田南畝が大坂の任務を終え、中山道を利用して江戸に帰国する道中の紀行文)」に「駅の中なる左の方に大きなる杉の木あり、その元に神明の神社の宮を建つ、駅舎のさま細久手に似て、それよりも人家すくなし」と記載されていました。
大湫宿の外れには信仰の中心になっていたと思われる観音堂(弘化4年:1847年建築、天井絵は瑞浪市指定文化財)があり境内には寛政7年(1795)に松尾芭蕉が貞享5年(「1688)に詠んだ「花さかり山は日ころのあさほらけ」の句が刻まれた句碑が建立されています。
【 琵琶峠 】−大湫宿を過ぎて暫く歩くと山中に入る旧街道があり、琵琶峠に至る行程には石畳が残され往時の街道の雰囲気が残されています。琵琶峠は標高558m、全長約1km、中山道の難所の1つ、道中には石仏や石碑、一里塚などが点在し岐阜県指定史跡に指定されています。
中山道:美濃路・経路
落合宿−中津川宿−大井宿−大湫宿−細久手宿−御嶽宿−伏見宿−太田宿− 鵜沼宿−加納宿−河渡宿−美江寺宿−赤坂宿−垂井宿−関ヶ原宿−今須宿
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