細久手宿(瑞浪市)概要: 細久手宿は中山道の宿場町として成立した町で江戸日本橋から48番目にあたります。細久手宿の集落的な発生は安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)に国枝重円によって開村したのが始まりとされ、文禄4年(1595)には村の鎮守として日吉愛宕神社が勧請されています。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いを制した徳川家康は全国の交通網の整備を命じ、それに伴い江戸時代初頭に中山道が開削されると、宿場町として大湫宿と御嶽宿が開宿しました。
しかし、両宿場の距離が4里半(約17.7キロ)も離れていた事から美濃国の奉行だった大久保長安は国枝与左衛門に命じて、慶長12年(1606)に改めて七軒屋と呼ばれる仮宿が開宿、しかし、その仮宿は火事によって大きな被害を受けた為、慶長15年(1610)に再建を兼ね正式な宿場町である細久手宿が開宿し改めて町割されています。
細久手宿の外れには国枝与左衛門(戒名:元祖開細院不白鑑居士・没年:慶安4年:1651年)の墓碑が、鎮守である日吉愛宕神社の境内には國枝與左衛門翁顕彰碑が建立していますが、その後の細久手宿の本陣は小栗八郎右衛門家が歴任している事から、国枝家は没落したと思われます。
細久手宿が位置する標高は420mと高く、宿場は3町45間(約400m:上町・中町・下町に分けられていました。)に渡り家屋が軒を連ね、中央付近には本陣、脇本陣、大黒屋などの有力者が占め、宿場の端には庚申堂(宿場の鬼門鎮護、厄除)や日吉愛宕神社(旧村社、文禄四年:1595年、国枝重円により勧請)、南蔵院(現在廃寺)といった信仰施設がありました。
江戸時代後期の天保14年(1843)当時は尾張藩領で本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒、家屋65軒あり、本陣は小栗八郎右衛門家、脇本陣を小栗八左衛門家が務め、尾張藩は格式が高かった為他家との相宿を嫌い小栗八郎右衛門家ではなく問屋役である大黒屋(酒井吉右衛門家)を定宿としていました。現在は主要街道から外れた為、経済的には衰退し静かな町並みの中で唯一残された大黒屋(酒井吉右衛門家:国登録有形文化財)が威容を誇っています。
【 大黒屋 】−酒井吉右衛門家は屋号「大黒屋」を掲げ、江戸時代に細久手宿で問屋職を歴任した家柄です。問屋は隣接する宿場町までの物資の運搬を取り次ぐ重要な役職だった事から、実力者が任命される例が多く酒井家も相当な実力者だった事が窺えます。酒井家は問屋職を担う一方で、大型旅籠としても知られ、金比羅詣でや善光寺詣で、御嶽詣でなどの多くの信者が中山道を経路とした際に宿泊で利用しました。
又、尾張徳川家が参勤交代などで江戸と名古屋を往復した際の定宿に指定された事から、順本陣としての格式を持ち、現在も式台付の玄関や上段の間などが残されています。明治時代以降は「大黒屋旅館」として旅館業を営んでいます。
【日吉屋】−大山家は屋号「日吉屋」を掲げ代々細久手宿で商家を営んでいた家柄です。案内板によると大山仙助は佐藤梅坡に師事し学問の振興に貢献し寺子屋の師範だったそうです。
現在の主屋は江戸時代末期の嘉永7年(1854)に建てられたもので、木造2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、外壁は真壁造り正面は白漆喰仕上げ、側面は下見板張り、2階外壁両側には袖壁、2階正面は格子戸、1階正面には下屋庇が設けられています。大山家住宅(日吉屋)は江戸時代末期の町屋建築の遺構として貴重な存在で細久手宿の町並み景観に大きく寄与しています(細久手宿唯一の商家建築とされます)。
中山道:美濃路・経路
落合宿−中津川宿−大井宿−大湫宿−細久手宿−御嶽宿−伏見宿−太田宿− 鵜沼宿−加納宿−河渡宿−美江寺宿−赤坂宿−垂井宿−関ヶ原宿−今須宿
中山道:宿場町・再生リスト
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