小栗八郎右衛門家(群馬県瑞浪市)

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細久手宿本陣・小栗八郎右衛門家
【 小栗八郎右衛門家 】−小栗八郎右衛門家は細久手宿の本陣、庄屋、問屋を歴任した家柄です。詳細は不詳ですが、瑞浪市に隣接する岐阜県可児郡御嵩町に築城されていた御嵩城(本陣山城)の戦国時代の城主は小栗信濃守だった事からその一族だったと思われます。小栗氏の本家筋は関城の城主長井道利に従った当地の土豪で、小栗信濃守の代には土岐郡に進出するなど版図を広げますが、当地は武田領と織田領の境界線に近く度々戦乱に巻き込まれた為、両家に従属する事で命脈を保つに留まっています。その後、織田家の台頭に伴い小栗氏は、織田家の家臣で金山城の城主森氏に従い、慶長4年(1599)に森忠政が信州川中島海津城へ移封になると御嵩城も廃城になった為、一族の一部が当地に土着し帰農したと思われます。江戸時代に入り、中山道が開削され細久手宿が開宿すると小栗八郎右衛門家が本陣、小栗八左衛門家が脇本陣を務め、その後も宿場町の指導者の地位を維持しています。江戸時代後期の本陣は桁行22間(約40m)、梁間15間(約27m)、部屋数23、畳数212畳、別棟添屋3棟、建坪約123坪(約406u)の規模と記録され、文化6年10月13日(1809年11月20日)には伊能忠敬の7次測量の際に宿所として利用されています(本陣山には小栗家の墓碑が建立されています)。安政5年(1858)に 細久手宿で大火があり大きな被害を受けた為、文久元年(1861)の皇女和宮江戸下向の際、本来宿所に予定されていましたが、復興が間に合わず、隣の大湫宿本陣に変更となっています。細久手宿は小規模な宿場町だった為、江戸時代後期になると困窮が激しく、明治時代以降に小栗家も当地を離れたと思われます(あくまで私論の為、詳細は不詳)。現在の建物はその後に建てられたもので、木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入(詳細不詳・間口が約1/3程になっている為、敷地が3分割されたと思われます)。

【 細久手宿 】−細久手宿の集落的な発生は安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)に国枝重円によって開村したのが始まりとされ、文禄4年(1595)には村の鎮守として日吉愛宕神社が勧請されています。江戸時代初頭に中山道が開削されると、宿場町と大湫宿と御嶽宿が開宿しましたが、両宿場の距離が長かった事から、利用者の利便を図るため慶長11年(1606)に細久手村が仮宿に指定され、その後放火により大きな被害を受けると慶長15年(1610年)に再建を兼ねて正式な宿場宿として改めて町割されています。

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