馬籠宿: 清水屋原家住宅

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馬籠宿(中山道)・清水屋原家住宅
【 清水屋原家住宅 】−原家は高遠藩(長野県伊那市高遠町)に仕える武士だった家柄ですが、原弥惣が江戸時代中期に中山道の宿場町である馬籠宿(岐阜県中津川市)に住まうようになり、その後裔は屋号「清水屋」を掲げ、馬籠宿の組頭や宿役人、明治時代に入ると副戸長や戸長、郡会議員、村長などを輩出し、次第に馬籠宿の支配層に出世していきました。そのような過程で、馬籠宿の本陣職を歴任した島崎家とは関係が深く、島崎家出身で明治から昭和初期にかけての文豪島崎藤村は長男島崎楠雄が馬籠村に戻った際、当時の当主だった原一平に一時身柄を預けています(藤村の小説「嵐」の登場人物の一人「森」は原一平氏を念頭に創作されたとされます)。その後、藤村と協力して旅館四方木屋を開き、楠雄は主として旅館経営に尽力し、後年、藤村記念館の館長に就任しています。現在の清水屋原家住宅は明治28年(1895)の火災で焼失後に再建されたもので、木造2階建、切妻、桟瓦葺(下屋庇:桟瓦葺)、平入、桁行13.9m、2階外壁両側に防火、延焼防止用の袖壁、中央に出格子、1階向かって右側が出格子、正面が格子戸(羽目殺し)、左側は板戸(潜戸付)となっています。主屋背後に設けられた土蔵も主屋と同じ様な経緯で明治時代中期以降に建てられ土造造りの建物で、土造2階建、切妻、平入、桟瓦葺、桁行5.5m、梁間4.5m、清水屋原家住宅(主屋・土蔵)は明治時代中期から後期にかけて町屋建築の遺構で、馬籠宿の町並み景観に大きく寄与している貴重な建物として国登録有形文化財に登録されています。又、中津川市では景観計画に定める景観計画重点区域にあるシンボル的な建物を保全するために清水屋原家住宅を平成25年(2013)に「景観重要建造物」第3号に選定しています。現在は「清水屋資料館」として原家や島崎藤村などの関係資料が多数展示されています。

【 馬籠宿 】−馬籠宿は島崎家の祖となる人物が馬籠城を築き、その城下町として成立した町です(当初の町は現在地より麓に位置する馬籠城の周辺にあったと思われ、現在でも鎮守である諏訪神社が鎮座しています。現在の町並みは江戸時代初頭に中山道が開削された際、改めて宿場町として町割りされたもので、木曽谷の入り口として防衛施設的な要素も強く、かなり堅固な枡形が設けられています)。島崎家は馬籠城を居城として地域の土豪として当地を支配していましたが、その後、木曽義仲の後裔を自称し木曽谷一円を支配下に入れた木曽氏に従いました。島崎家は木曽氏が没落後に帰農しましたが、引き続き当地の指導的な立場にあり、関ケ原の戦いや、馬籠宿開宿に尽力した功により馬籠宿の本陣職、問屋、庄屋に就任し、明治維新まで後裔が歴任しました(長野県側の妻籠宿の本陣職である島崎家は同族で、その後も両家の間に何度も血縁関係を結んでいます)。馬籠宿は難所である馬籠峠と十曲峠に挟まれ、宿場そのものが傾斜地に町割りされた珍しい宿場町で、石垣や水路など特徴ある町並み景観となっています(現在、馬籠宿に残されている町屋建築は明治28年:1895年と、大正4年:1915年の火災以降に再建されたものが殆どです)。難所に囲われていた割には江戸時代後期に旅籠が18軒と伸び悩み、大きな発展が図られず、峠の麓にある中津川宿や、峠を越えた妻籠宿の方が旅人や商人達に利用されたようです。

岐阜県の町屋建築
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