【 飛騨高山城 】−飛騨高山城(岐阜県高山市)の前身となる天神山城(多賀山城)は室町時代中期頃に飛騨守護の京極氏に従った多賀徳言により築城され、永正年間(1504〜1520年)に高山外記により山頂まで城郭が拡張されています。高山外記の詳細は不詳ですが飛騨守護代の三木自綱により謀殺された後に天神山城は一時排されたと思われます。自綱は松倉城を居城として飛騨国最大の大名として勢力を拡大し、さらに自綱は飛騨国司の姉小路家の名跡を継ぎ姉小路頼綱を名乗るようになります。地勢的に織田家と上杉家の両面に好を通じていましたが、天正10年(1582)に信長が死去すると飛騨国の均衡が崩れ、それを機に飛騨国の統一を果たしています。しかし、佐々成政と与した事で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との対立を招き、天正13年(1585)には秀吉に従った金森長近の侵攻により姉小路家は没落します。金森長近はこの功により3万8千7百石で飛騨に配され、天正16年(1588)から天神山城の改築、拡張が開始され慶長8年(1603)に竣工すると名称も高山城に改めてられています。その間、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで金森長近は東軍(徳川方)に与した為、2万石が加増され高山藩を立藩、高山城には藩庁と藩主居館が設けられ、城下町は藩都として発展しました。しかし、元禄5年(1692)、高山藩6代藩主金森頼時が上山藩(山形県上山市)に移封になった事に伴い、元禄8年(1695)に高山城は廃城となっています。
【 高山陣屋 】−高山藩が廃藩になると、飛騨国は天領(幕府直領)となり山頂に築かれた高山城の代わりに麓に高山代官陣屋(国指定史跡)が設けられました。その際、高山城の施設が移設され、現在残されている土蔵は高山城の遺構とされます。安永6年(1777)からは郡代役所に昇格し、明治まで25代177年間当地の中心施設として機能しました。
【 城下町 】−天正13年(1580)、飛騨国を平定した豊臣秀吉は侵攻に尽力した金森長近を飛騨3万8千石の領主として配しました。長近は新たな居城として高山城を築城、同時に城下町も整備しました。金森氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで豊臣家を見限り徳川方に与した為、領地を安堵され引続き高山を支配しました。金森氏は元録5年(1692)に上山城(山形県上山市)に移封されるまで6代にわたり城主を歴任しこの間、基本的な町割が形成されました。金森氏が移封になると天領となり高山城が廃城となり天領陣屋が設けられものの町割は維持されました。現在でも随所に古い町屋が軒を連ね上一之町、上二之町、上三之町、片原町、神明町4丁目の各一部が「三町伝統的建造物群保存地区」、下一之町、下二之町、下三之町、八幡町、大新町1丁目、大新町2丁目、大新町3丁目、大新町4丁目の各一部 が「下二之町大新町伝統的建造物群保存地区」との名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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