高山城(別名:天神山城)概要: 高山城は岐阜県高山市空町城址公園に位置しています。高山城は標高686.6mの城山山頂に築かれた山城で室町時代の文安年間(1444〜1448年)に京極氏(飛騨守護職)の被官、多賀出雲守徳言が築城した天神山城(多賀山城)を前身としています。永正年間(1504〜1520年)に高山外記により山頂まで城郭が拡張されたものの飛騨守護代の三木自綱により高山外記が謀殺された後に天神山城(多賀山城)は廃城、又は、松倉城の支城の一つとして位置づけられたと思われます。自綱は松倉城を居城として飛騨国最大の大名として勢力を拡大し、さらに自綱は飛騨国司の姉小路家の名跡を継ぎ姉小路頼綱を名乗るようになります。
三木自綱は勢的に織田家と上杉家の両面に好を通じていましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が自刃すると、飛騨国の均衡が崩れ、それを機に飛騨国の統一を果たしています。しかし、自綱は佐々成政と与した事で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との対立を招き、天正13年(1585)には秀吉に従った金森長近の侵攻により姉小路家は没落します。
飛騨国と統一した金森長近は秀吉から飛騨3万8千7百石が与えられ、三木家の居城だった松倉城に入りますが、天正16年(1588)に利便性が高く防御的に有利な天神山城(多賀山城)に居城を遷し近代的な城郭へと整備拡張が開始されました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで金森家は東軍として行動した為、本領に加え2万石が加増され高山藩を立藩、高山城は引き続き工事が続けられ慶長8年(1603)に竣工し名称も高山城に改めてられ金森家が6代(長近→可重→重頼→頼直→頼業→頼時)に渡り城主を歴任しています。
元禄5年(1692)、高山藩6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封になると高山藩は廃藩、しかし、高山城は加賀金沢藩主前田綱紀が城番として管理し維持されました。しかし、高山城を維持管理するには莫大な費用がかかり、幕府への要望が適い元禄8年(1695)に廃城となりました。
その後、旧高山藩領は天領となり、高山城の麓には天領代官陣屋が設けられ、高山城の施設の多くが移築されたそうです。高山城の城跡には曲輪、堀、石垣、土塁などの遺構が残り貴重な事から高山城跡は岐阜県指定史跡になっています。
又、三の丸にあった評定場が素玄寺の本堂に、月見殿が東山神明社の絵馬殿に、土蔵が高山陣屋の御蔵へ、2の丸にあった黄雲閣が雲龍寺の鐘楼門へ、城の一部が法華寺(金森重頼が加藤光広の菩提寺を整備する為に移築された)の本堂へそれぞれ移築されています。
【 城下町 】−天正13年(1580)、飛騨国を平定した豊臣秀吉は侵攻に尽力した金森長近を飛騨3万8千石の領主として配しました。長近は新たな居城として高山城を築城、同時に城下町も整備しました。金森氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで豊臣家を見限り徳川方に与した為、領地を安堵され引続き高山を支配しました。金森氏は元録5年(1692)に上山城(山形県上山市)に移封されるまで6代にわたり城主を歴任しこの間、基本的な町割が形成されました。
金森氏が移封になると天領となり高山城が廃城となり天領陣屋が設けられものの町割は維持されました。現在でも随所に古い町屋が軒を連ね上一之町、上二之町、上三之町、片原町、神明町4丁目の各一部が「三町伝統的建造物群保存地区」、下一之町、下二之町、下三之町、八幡町、大新町1丁目、大新町2丁目、大新町3丁目、大新町4丁目の各一部 が「下二之町大新町伝統的建造物群保存地区」との名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
高山城:上空画像
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