金森頼業

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金森頼業(飛騨一之宮水無神社)
【 概 略 】−金森頼業は慶安元年(1648)、高山藩(岐阜県高山市)4代藩主金森頼直と本多忠義の娘との子供として生まれました。寛文5年(1665)頼直の死去に伴い金森家の家督を継ぎ、高山藩5代藩主に就任しています。詳細は良く判りませんが、寛文8年(1668)に神岡鉱山で騒動が発生し責任者と思われる宮島平佐衛門が高山城に呼び出され殺害されたとされます。

一説には宮島平佐衛門は藩祖金森長近に従った茂住宗貞の家臣で、殺害された事を知った宗貞は越前に逃亡したとも云われています。しかし、茂住宗貞は2代藩主金森可重と仲が悪く自らの屋敷に火を放ち財産を持って越前敦賀に逃れ小浜藩主に仕えたとの説もあり事実は良く判っていません。又、一説には宮島平佐衛門は寛永6年(1629)に金森家に仕え白川郷にある鉱山開発に尽力し、寛永8年(1631)に金山奉行に抜擢、寛永15年(1638)に同僚の妬みから讒訴によって高山城で殺害、これにより鉱山が衰退した事から寛永18年(1641)に金森頼業が宮島平佐衛門の御霊を金守山黄金神社に祭ったとされます。寛永18年(1641)では頼業が生まれる前という事になりこちらの説も説得力が欠けます。

金沢藩(越中:現在の富山県)前田家と高山藩(現在の岐阜県)の藩境問題も頼業は大きく関わっており、生前は解決に至らなかったものの没後間もなく幕府の裁定により高山藩が勝訴しています。頼業は学問や芸術に興味があったようで家臣である木村昌悦や日根野宣潔等と連歌を楽しんだとされます。寛文9年(1669)には飛騨一之宮水無神社に仁王門を寄進し武運長久を祈願、大原安永騒動が水無神社を拠点として行われた事から騒動終結後に神仏分離が行われ、仁王門は安永8年(1779)に宮村(現在の高山市一之宮町獅子山)の 一位山往還寺の山門として移築されています。寛文11年(1671)江戸藩邸で死去、享年24歳、戒名:照見院殿覚峰宗円大居士。金森頼業は金森家の菩提寺である大隆寺に葬られましたが元禄5年(1692)、金森頼時が上山藩移封に伴い京都大徳寺塔頭金龍院(現在の龍源院)へ改葬されています。

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