金森長近

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金森長近(素玄寺)
【 概 略 】−金森長近は大永4年(1524)、金森定近の子供として生まれました。天文11年(1542)頃に織田信秀に仕官し、信秀が死去すると跡を継いだ織田信長に仕えています。天正3年(1575)に発生した長篠の戦いや越前一向一揆掃討戦で大功があり越前国大野郡の2/3が与えられています。天正10年(1582)に発生した本能寺の変では嫡男である金森長則は討死しています。織田家の後継者争いが激化すると以前から北陸方面軍司令官だった柴田勝家と行動を共にしていた関係で引き続き与していましたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで突如として陣を離れ結果的に羽柴秀吉に利する事になっています。

その後は秀吉に与し天正13年(1585)に小島城(岐阜県飛騨市)や古川城、桜洞城などに侵攻し飛騨国の領主だった姉小路頼綱を倒した戦功により飛騨一国が与えられています。天正18年(1590)から高山城(岐阜県高山市)の築城や城下町の町割りを行い、領内に諏訪城(岐阜県下呂市萩原町)や増島城(岐阜県飛騨市古川町)、神岡城(飛騨市神岡町)を築き、飛騨街道の開削や鉱山の開発など領内も随時整備しました。一方、秀吉の御側衆として重用され、豊臣系大名として地位を確立し文化人、教養人としても知られました。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは大恩があった豊臣家を見限り徳川方に与し郡上八幡城(岐阜県郡上市)攻めに参加するなどの功績を挙げています。結果、美濃国上有知1万8千石と河内国金田3千石が加増され、慶長10年(1605)に高山藩を養子である金森可重に譲り、自らは小倉山城(岐阜県美濃市)に遷り上有知藩を立藩しています。慶長13年(1608)死去、享年85歳、戒名:金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士、当初は2代藩主金森可重が長近の菩提寺として創建した素玄寺に葬られましたが、6代藩主金森頼時が移封になった際、大徳寺龍源院(京都府京都市北区紫野)に改葬されています(飛騨東照宮の境内社である金龍神社には金森長近が祭られています)。

金森長近は社寺の保護も行い、五社神社(飛騨市古川町)で戦勝祈願、兵火で焼失した禅昌寺(下呂市)を再興、天正年間(1573〜1592年)に玄海和尚を招いて飛騨国分寺を中興し本堂(国指定重要文化財)を造営、大雄寺に寺地を与え源誉受徳上人を招いて中興、高山城の鎮守社として杉箇谷神明社日枝神社に社地を与え勧請、天正15年(1587)には千光寺を再興、天正16年(1588)には高山別院に寺領が与え庇護、同年には金森長則の菩提を弔う為に雲龍寺を創建、同年には照蓮寺に寺地を寄進し堂宇を移築、慶長12年(1607)には飛騨一宮水無神社の拝殿(絵馬殿:高山市指定文化財)を造営、清泰寺(岐阜県美濃市)に自らの菩提寺とする為に寺地を与え再興、八幡神社(美濃市)を上有知の産土神に指定、又、金森長近が行った高山市(三町下二之町大新町)や美濃市(美濃町)は現在でも優れた町屋建築町並みが残されており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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