遠藤慶隆

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遠藤慶隆(郡上八幡城)
【 概 略 】−遠藤慶隆は天文19年(1550)、遠藤盛数と東常慶の娘との子供として生まれました。永禄5年(1562)盛数の死去に伴い家督を継いだものの、僅か13歳だった事から母親の再婚相手である長井道利や正室の実親である安藤守就を後ろ盾を得て何とか成人に成長し、織田信長や豊臣秀吉に従う事で厳しい戦国時代を乗り切っています。慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで東軍として行動した事が評価され念願だった郡上八幡城(岐阜県郡上市)の城主に返り咲き2万7千石で郡上藩を立藩しました。慶隆は郡上八幡城の改修や城下町の町割りを行うと共に社寺の保護も積極的に行いました。

天正年中(1573〜1591年)に日吉神社に戦勝祈願を行い郡上八幡城の南方の鎮護社としています。戦国時代末期に本宮神社(岐阜県郡上市八幡町)の本殿を再建したと伝えられています。慶長5年(1600)に行われた郡上八幡城攻防戦で本陣となった円通閣の境内に戦後、自ら桜(墨染めの桜)を植えたとされます。同年、慶隆が加茂郡小原に在城の際、霊夢に地蔵菩薩の化身が立ち、その御告げに従い徳川方(東軍)に与し、見事勝利した事から愛宕権現(現在の愛宕神社)を創建したと伝えられています。慶長6年(1601)には照蓮寺(岐阜県高山市)の正勧坊正欽(東常縁の玄孫)を招いて長敬寺(岐阜県郡上市)を創建、本堂の裏には慶隆の墓碑が建立されています。

慶長11年(1606)には半山紹碩禅師(京都妙心寺の定慧円明の十徹の1人)を招いて慈恩寺を創建、境内に嫡男慶勝や生母である智勝院殿の塔所を建立するなど遠藤家の菩提寺として庇護しました。慶長12年(1607)には文禄3年(1594)に落雷で焼失した戸隠神社(岐阜県郡上市和良町)の社殿を再建しています。慶長19年(1614)には不動の宮を現在地に遷座し社号を岸剱宮に改める共に郡上八幡城の城下町の氏神としました。慶隆は在位中に大乗寺を現在地に境内を遷し堂宇を造営しています。

寛永9年(1632)死去、享年83歳、戒名:深心院殿釈乗性旦斎大居士。領内の墓は岐阜県郡上市美並町にある乗性寺で、寺号は慶隆の戒名に因んで改称しています。現在も郡上八幡城の城下町は古い町並みが残され名称「郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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