【 概 要 】−金森重頼の出生について2説あり、1説は文禄3年(1594)に高山藩(岐阜県高山市)2代藩主金森可重と名古屋因幡守高久の娘との子供。もう1説は慶長元年(1596)に伊東治明の子供として生まれ、可重の養子になったとする説です。伊東治明は可重の養父である金森長近の実の子供とも云われる事から重頼はある意味金森家の正当な血筋とされます。
重頼は慶長13年(1608)に徳川家康の小姓となり、大坂の陣では徳川軍として従軍、元和元年(1615)可重の死去に伴い金森家の家督を継ぎ高山藩3万8千石の3代藩主を就任しています(一般的には可重の長男である金森重近は大坂の陣で徳川方に加担した父親を批判した事で廃嫡、次男金森重次は幕府の御家人を継続したとされます。血筋からすれば重頼に正当性があり、徳川家康の側近でもあった為ある意味規定路線だった事から、それに反発した重近が廃嫡されたのかも知れません)。
重頼は新田開発を積極的に行い実石で6万石余とも云われる程になり、金山師茂住宗貞や宮島平左衛門を登用して茂住・和佐保鉱山(飛騨市神岡町)や六厩金山(白川郷)など多くの鉱山を開掘し藩の財政に大きく寄与しています。産業面では小糸坂に陶窯を築き小糸焼を始めるなど特産物の奨励を行い高山藩の基礎を固めています。
幕府から一国一城令が発令されると支城である神岡城、増島城、萩原諏訪城を修築し「旅館」と呼ばれる陣屋に改変し、参勤交代で利用する飛騨街道の整備も行っています。寛永18年(1641)に発生した大飢饉で多くの領民が苦しむと、金森家の家宝で天下の茶壺と呼ばれた「雲山肩衝」を宮津藩主京極高広に3千両で売却し、その代金を米に換えて領民を救済した事で名君としての名声が高まったとされます。
幕府からの信任も高く元和4年(1618)には徳川家康6男で越後高田藩(新潟県上越市)の藩主松平忠輝が流罪になった際、金森重頼預かりとなり城下にある天照寺(岐阜県高山市)で軟禁しています。ただし、忠輝とは色々難しかったらしく寛永3年(1626)に願い出て高島藩(長野県諏訪市)の藩主諏訪頼水に引き取って貰っています。寛永9年(1632)に熊本藩(熊本県熊本市)の藩主加藤家が改易になると加藤忠広の長男である加藤光広も金森重頼預かりとなり天照寺で軟禁、寛永10年(1633)に死去すると菩提は法華寺(岐阜県高山市)に葬られ、一周忌の際には重頼の命により高山城二の丸の御殿の一部が移築され本堂としています。
重頼は社寺の保護も行い、慶長18年(1613)には荒城神社の幣殿を造営、元和5年(1619)には徳川家康の御霊を祭る飛騨東照宮の創建、元和9年(1623)には桜山八幡宮を再興、寛永元年(1624)には安国寺の堂宇の再建、寛永9年(1632)には宗猷寺を創建、正保2年(1645)には飛騨天満宮で病気平癒の祈願を行い快癒すると社殿を再建、林昌寺(岐阜県飛騨市)には将軍家から賜った革ばきを奉納しています。慶安3年(1650)死去、戒名:眞龍院殿瑞雲宗大居士。
|