金森可重

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金森可重(増島城)
【 概 略 】−金森可重は永禄元年(1558)、垂井城(三重県垂井町)の城主長屋景重と稲葉氏の娘との子供として生まれました。天正3年(1575)に金森長近が大野城(福井県大野市)の城主になると養子として迎え入れられ、郡上八幡城(岐阜県郡上市)の城主の遠藤慶隆の娘である室町殿を正室としています。その後は長近と共に豊臣秀吉軍の従軍し功を挙げ金森家に飛騨国一国が与えられると、長近は可重に増島城(岐阜県飛騨市古河町)一万石で配しています。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは豊臣家を見限り徳川方として行動し、西軍に与した稲葉貞通が立て籠もる郡上八幡城に義理の父親である遠藤慶隆と共に侵攻し攻略しています。慶長10年(1605)、長近が小倉山城(岐阜県美濃市)に遷った事で、事実上可重が金森家の家督を継ぎ、高山藩3万8千7百石2代藩主を就任しています。慶長20年(1615)に発生した大坂夏の陣では徳川方として参陣し岸和田城の守備を担う一方で樫井の戦いで敗走する豊臣軍の追撃戦で功を挙げています(長子である金森重近は豊臣方に与する事を進言し参陣しなかった事から廃嫡、その後は宗和と名乗り文化人として活躍、禅昌寺清泰寺の庭園を作庭しています)。元和元年(1615)死去、享年58歳、戒名:徳應院殿雲峰閑公大居士、大徳寺龍源院(京都府京都市北区紫野)に墓碑が建立されています(跡を継いだ金森重頼は可重の菩提寺である宋猷寺を創建しています)。

金森可重の実績としては高山城の築城を長近から引き継ぎ主に三の丸を整備、天正17年(1589)に実家である長尾家の菩提寺とする為に天翁秀梅を招いて林昌寺を再興、増島城の鬼門鎮守として気多若宮神社を保護、天翁秀梅大和尚を召還して円城寺を再興、慶長年間(1596〜1616年)に伏見稲荷大社の分霊を勧請し錦山神社を創建、慶長14年(1609)に格翁門越和尚を招き長近の菩提寺である素玄寺を創建しています。

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